(尾崎秀実を演じる滝沢修)
<「オットーと呼ばれた日本人」>
尾崎秀実に関する本を読むと、彼は売国奴ではなくて、実は愛国者だったのだという趣旨のものが多いことに気づく。
尾崎は日本の機密情報をゾルゲに流していたのだから、わが国に取っては獅子身中の虫であり、日本の敗北を招いた非国民ということになるが、尾崎に肩入れする論者は、そうは見ないのである。彼は日本が世界戦争に巻き込まれることを阻止するためにゾルゲに協力したのであり、売国奴どころか愛国者だったと主張する。木下順二の「オットーと呼ばれた日本人」も、この立場から書かれている。
「オットー」というのはコミンテルンが尾崎に与えた名前で、尾崎は確かにオットーとして国際共産主義のために働いていた。が、同時に彼は日本人として日本のためにも働いていたと木下順二は考えたから、「オットーと呼ばれた日本人」といういささか持って回った題名にしたのだった。
この作品の第一章は、中国の上海を舞台にしている。
第一章はプロローグだから、ゾルゲグループに属する各メンバーの性格や相互関係が紹介される。尾崎の人柄は、彼自身の口によって次のように語られる。
「(おれは)大新聞の一流記者だ。けれどね、新聞記者の仕事というのは要するに事件の分析と報道だ。それだけなんだ。──それはおれには耐えられない。おれの中には自分でも押え切れない欲望がある。大げさにいうと、国家の命運に生涯を托す──いやもっと大げさにいうと、日本という国の歴史を決定する事業に参画する人間の一人になりたいという欲望がおれの中にはある」
アメリカの女流作家アグネス・スメドレーは尾崎と愛人関係にあるが、彼女は尾崎についてこう評している。
「あんたとゾルゲとが決定的に違ってる点の一つは──あんたの中には祖国としての日本がいつも息づいてる。けれどゾルゲの中には──いつか彼がはっきりといったことがあるわ。ドイツが理想のドイツに生れ変る日まで、ドイツはぼくの祖国じゃない。──ゾルゲのなかにある祖国は、世界に今ただ一つ存在するあの社会主義の国よ」
ゾルゲによって組織されたスパイグループが、当時、どのような世界情勢に直面していたかについても、序章の中で具体的に語られている。ゾルゲは、尾崎の「日本陸軍は北進論を主張し、日本海軍は南進論を主張している」という言葉を受けて、「日本帝国主義は北を攻めるか南へ進むか、ほとんど地球の重さが現在それにかかっている」と述べる。従って、グループの任務は日本の軍部が北のソ連を攻めるか、南の仏印に侵攻するかを突き止める点にあったことが明らかにされる。
第二章の舞台は、東京になる。
中国特派員だった尾崎は日本勤務になり、家族と水入らずで東京で暮らしている。尾崎自身、この頃のことを手記の中で、一生で一番幸福な時期だったと語っている。当時、彼は中国問題の専門家としてジャーナリズムの寵児になり、八方美人の性格を生かして知友を左右のウイングに拡げ、政財界にも知己を増やしていた。
尾崎は順風満帆の生活のなかで、特派員時代の刺激に満ちた生活を懐かしく思い出して、訪ねてきた友人に、自分の中には平和な日常を求めるニギミタマと、荒々しい行動を愛するアラミタマがあると打ち明けている。そんな尾崎のもとに、ゾルゲの命を受けて、宮城与徳がやってくるのだ。用件は、ゾルゲ機関の一員になって情報活動の一翼を担ってほしいという依頼だった。ゾルゲはコミンテルンから指示されて、日本軍部の動向を探るために、中国を引き払って日本に乗り込んでいたのである。
中国特派員時代の尾崎は、ゾルゲから協力を求められたとき、考える余裕を一日与えてくれと言って即答しなかった。だが、今回は即座にOKを出した。近衛文麿の側近になっていた彼は、アラミタマに突き動かされて、進んで火中の栗を拾う気持ちになったのである。
この時の尾崎の心境を、木下順二は次のように語らせている。
「(このままだと)帝国主義的資本主義諸国の狼どうしの奪い合いの中で、日本はもみくちゃにやられちゃうだけだ。そういう豺狼の争いに絶対に日本を捲きこませちゃいけないんだ。だからどんなことをしても、たとえどんなことがあっても世界戦争をくいとめなきゃいけないんだ」
この目的を実現するために、尾崎は自分のなすべきことをゾルゲにこう語るのだ。
──ぼくの任務は、日本の支配層をどう変えていくかということなんだ。
もっと正確にいうなら、日本の支配層の力をどう利用するかということなんだ。
尾崎は、自分の目論見を宮城与徳にも説明している。
──アメリカと戦争を始めりゃ、日本は六ヶ月で惨敗する。
このままだと、日本は今年の10月下旬までにはシンガポール攻撃を開始する。
だから、それまでに近衛首相とアメリカ大統領との直接会談を実現させなければなら ないんだ。
第三章になると、尾崎とゾルゲの間のギャップがますます拡がって行く様子が語られる。
尾崎が、祖国を救うためということを強調するのに対して、ゾルゲは、「自分はドイツのためにではなく、ソ連を救うために動いている。いや、ソ連一国を救うためではなく、世界を救うために活動している」と反駁する。
すると、尾崎は「東亜協同体」の持論を述べ始める。日本がソ連と中国と同盟し、これに解放されたアジア諸民族が参加すれば東亜協同体ができあがると夢のような未来図を語りはじめるのだ。
ゾルゲが、すかさず、どんな方法でその夢物語を実現するのだと質問する。尾崎は日本の総理を利用するのだと答える。近衛文麿は、東亜協同体を実現させ得る唯一の人物だというのである。
そして宮城与徳を交えた議論は、次のような激論に発展する。
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ゾルゲ= きみは神がかりの軍人と同じような表現を使いだしたな。日本がどうしてアメ
リカに惨敗してはいけないんだ?
宮城与徳=そうです。ぼくもそれは同意見だ。
尾崎秀実=(宮城へどなる)きみは、きみのような日本人の魂を忘れた人間が、何を発 言する権利があるんだ!
ゾルゲ=ますますきみは右翼みたいな発言をやり出したぞ。
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作者の木下順二は、こういう尾崎秀実を全面的に擁護し、エピローグの章で弁護士を登場させてこう言わせるのだ。
「あんたは国を売る行為をしたとはいえどもだ、その、そういう行為を起した動機、そこには毛頭私利私情もなかった、決して一身の利害をかえりみての行動ではなかった、まったくあんたとしては国を憂うるのまごころからやったことであるという、この一点において、わたしはあんたの弁護を引き受けたんだ」
そして最後に尾崎に、こう言わせるのである。
「一つだけぼくにいえることは──ぼくはオットーという名前を持った、しかし正真正銘の日本人だったということだ。そして、そのようなものとして行動してきたぼくが、決してまちがっていなかったということ、そのことなんだ」
だが、こんなに簡単に尾崎を愛国者にしてしまっていいものだろうか。
近衛首相とアメリカ大統領を会談させようとした尾崎の目論見は、ルーズベルトに拒否されて消えてしまったが、もし彼の工作が実を結び、日本が世界戦争に参加することなく終戦を迎えたとしたら、歴史はどうなったろうか。
ソ連はナチスドイツを倒した功績によって一目置かれることになり、ソ連を独走させまいとして戦争の最終段階で連合国側に参戦したアメリカと厳しく対立することになる。世界戦争が終わっても、小規模の戦争はあちこちで続く。中国では国民党と共産党の内戦が共産党の勝利に終わり、日本から独立しようとしている満州国、朝鮮もその影響を受けて東欧諸国のようにソ連の衛星国家になる。
満州、朝鮮、台湾を手放すことになった日本は、東西冷戦下で共産主義への防波堤の役割を負わされる。アメリカでマッカーシーが赤狩りをやったように日本でも右翼が幅をきかせ、国内の民主化がなかなか進行しない。農地改革が不徹底に終わって地主層が生き残り、彼らが資金源になって右翼を支える。憲法には天皇大権が残され、中絶手術は禁止され、基本的人権が制限される・・・・・。
日本が戦争に負けなかったら、こんな具合に日本の民主化は50年から100年確実に遅れた筈である。それを考えたら、日本の敗北はある点で祝福すべきことではないか。尾崎秀実が知識層の間で一定の評価を受けているのは、こうした観点からなのだ。
自国の利害得失から個人の行動を批判するのではなく、世界全体、人類の未来という観点から眺めたら、人間に対する評価も自ずと変わってくるのだ。ゾルゲの諜報活動が今もなお高く評価されているのは、ナチスドイツの敗北を早めたからだった。そしてゾルゲのその諜報活動は、尾崎の情報を基礎にしたものだったのである。尾崎が近衛首相のブレインとして、日本によるソ連攻撃はないと断定したから、ソ連は極東に配置していた赤軍をヨーロッパ戦線に回し、対ドイツ戦に全力を集中することが出来たのだ。
尾崎秀実を愛国者という小さな立場に封じ込めてしまうことは、尾崎の本質を矮小化することになりはしないだろうか。彼は獄中で転向したが、それ以前の彼は目を未来の世界に注いでいたのである。
(注:「オットーと呼ばれた日本人」に登場する人物は仮名になっているので、本文では実名に直してあります)