<「心」の続編(その2)>
「私」が奥さんに遺書の内容を告げることになったのは、例の銀行の支店長が奥さんをつけ狙うとうという事態が起きたからだ。
支店長は銀行の金を使い込んでいて、その穴埋めに奥さんの金を引き出そうとしたのだった。彼はそのことがばれて銀行を馘首された。それからは、彼は毎日のように奥さんのところに押しかけてきて、自分が計画中の事業に出資するように口説き始めたのである。
支店長は半ば自棄になっていて、酒に酔って夜やってくる。女中も怖がって部屋に籠もって出てこない、それで奥さんは「私」に暫くの間、家に泊まりに来てくれないかと頼みにきたのだ。「私」は以前にも用心のため先生宅に詰めていたことがある。あれは、近所に泥棒が出没して奥さんが怖がっていたときだった。
奥さんの所に押しかけてきた支店長は、「私」が同居していることを知ると、さも憎々しいげに「私」を睨んだ。「やっぱり、あんたは奥さんのヒモだったんだな」と捨てぜりふを残して去り、以来、彼は姿を見せなくなった。もうこれで安心だなと思っているところに、とんでもない事件が起きたのである。
奥さんの家に泊まり込むようになって半月ほどした頃だった。残業で遅くなって夜半に帰宅した「私」は、門の中に足を一歩入れたところで塀の陰に隠れていた支店長に襲撃されたのだ。彼は短刀を手にして背後から襲ってきた。
「私」が相手と格闘していると、騒ぎを聞きつけた奥さんは女中を警官の駐在所に走らせて、自分も隣家の主人に救いを求めた。隣の主人は、数日前から支店長が近所をうろついているのを見かけていたから、直ぐに応援に駆けつけ、支店長をその場に組み伏せてくれた。
女中の呼んできた警官が支店長を連行して去り、隣家の主人も自宅に引き上げて、一件落着した。彼らを見送って家の中に入ってから、「私」はじめて肩に傷を負っていることに気づいた。服を脱いで見たら、シャツが血で染まっていたのである。「私」は奥さんに応急手当をしてもらってから、近くの医者のところに出かけて傷を縫い合わせてもらった。「私」が帰宅したときには、時刻は深夜になっていた。
奥さんは、傷が下にならないように横臥した「私」の体に座布団をあてがって横向きにしてくれる。責任を感じた奥さんは、心配そうに片時も「私」から目を離さない。
事件が新聞種になったのには驚いた。その翌日の新聞に、「邪恋に狂った支店長」というタイトルで小さな記事になっていたのだ。警察署に詰めていた記者が、事件を耳にして、その場で直ぐ記事を書き印刷に回したらしく、新聞に載った記事はかなりいい加減な内容になっていた。
使い込みをした支店長が、毒を食らわば皿までとばかり、かねてから思いを寄せていた美しい未亡人を襲ったと書いてある。が、彼はたまたま泊まりに来ていた親戚の青年に取り押さえられ、警察に引き渡された。青年は短刀を振りかざして襲いかかる支店長と素手で渡り合い、たちまちのうちに組み伏せてしまった。その見事な腕前は塚原卜伝の再来のようだった、というのである。
「私」は医者から、4,5日安静にしているようにといわれていたので、役所に届けを出して家で休んでいた。奥さんは新聞を持って来て、笑いながら「私」に話しかけた。
「新聞はいいことを書いてくれたわ。あなたは私の親戚だというから、遠慮なく、ずっとここにいてくれていいのよ。いえ、あなたは親戚だから、何時までもここで私を守ってくれなきゃいけないわ」
奥さんが「何時までも私を守ってほしい」というのはどういう意味だろうか。「私」は動揺した。そして、混乱した感情をそのまま目色に見せた。すると、奥さんは「私」の気持ちを見透かしたようにいった。からかうような口調だった。
「でも、あなたがイヤなら、引き留めないけれど」
役所を休んで奥さんから「看病」されていた四日の間に、「私」は先生の遺書の問題について決断を迫られた。看病といっても、着替えを手伝ってもらったり、風呂に入れないので体を拭いてもらう程度だったが、奥さんはこれを口実に「私」の部屋に入り浸りになり、そして二人で仲良く話し込んでいると、話題は結局先生の遺書の件になったからだ。
「私は、あの人の家内だったのよ。それなのに、主人が自殺した理由を、あなたが知っていて私が知らないなんていうほうがあるかしら」と奥さんは、目に涙を浮かべて「私」をなじることもある。そして、ヒステリックに、「あの人は私が嫌いになって死んだのね。もう、私と一緒に暮らす気がなくなったんだわ」と言ったりする。
にもかかわらず、「私」が持ちこたえたのは、奥さんの涙より先生との信義を大事にしたからだった。しかし、その「私」も、態度を変えざるを得なくなった。奥さんにこういわれたからだ。
「あなたもあの人と同じように私を子供扱いにして、お腹の中で私を小馬鹿にしているのね」と鋭く責めた、「主人は、いつか私たち夫婦に子供が生まれないのは天罰だと言ったでしょう。女にとって子供が生まれないということは、とても大きな問題なのよ。それなのに主人は、自分一人で飲み込み顔をして天罰だなんて断定して、その天罰の中身を説明しようともしない。あの人は大事な問題になると、何時でも思わせぶりな言い方しかしないの」
「私」は役所を休んでから三日目に、ついに奥さんにすべてを話した。
奥さんは、Kが彼女を愛していたと聞かされて、ショックを受けたようだった。「私」の話が終わると、奥さんは長い間窓の外を見ていた。やがてこわばった表情で部屋を出て行った。それが昼食前のことだった。
昼食の膳は女中が運んできた。奥さんはどうしたのかと尋ねると、外出したということだった。暗くなってから奥さんの帰ってきた気配がしたが、夕食を運んできたのはやはり女中だった。
「私」が奥さんと再び顔を合わせたのは翌日の朝だった。朝食を運んできた奥さんは、努めて普段通りに振る舞おうとしていた。奥さんは自分の方から、昨日の行動について説明した。
「私は久しぶりに墓参りに行ってきたの。三人の墓に花を供えて、二人の墓の前でたっぷり泣いてきたわ」
三人というのは、奥さんの母親と先生とKで、彼らの墓は同じ場所にあるのだ。奥さんが泣いてきたという二人の墓は、無論、先生とKのものだ。
「私が二人を死なせたんですものね」
「しかし──」
「ええ、確かに私には直接の責任はないわ。あの二人は私のあずかり知らない理由で勝手に悩み、死ななくてもいいのに死んだんですからね。でも、私は生きているだけで、存在しているだけで、あの二人にとって禍(わざわい)の種だったのよ」
「しかし──」
「私は、あなたにとっても禍の種になっているかもしれない。あなたを引き留めたことは、私の間違いだった。傷が治ったら、あなたは出て行きなさい」
「何を言うんです。僕は奥さんを一生守って行きます」といった後で、「私」は思いも寄らないことを口走っていた、「奥さんのそばにずっと居るために、僕を養子にして下さい」
・・・・瓢箪から駒が出るという言葉がある。半年後に、「私」は奥さんと養子縁組を結んで、正式に同じ屋根の下で暮らすことになったのだ。そして、愛する女性を母と呼んで生きるという苦渋の生涯を自ら選んだのだった。