<雑誌「諸君!」を拝見>
私はこれまで、新聞雑誌に載っている「諸君!」の広告を興味津々で見ていたが、雑誌そのものを購入したことは一度もない。戦中・戦後を通して右翼の学生や学者らに直接・間接接触した経験から、「右翼的人間」の思考スタイルが手に取るように理解されてきたからだ。右翼の皆さんは、いつも昂奮している。新聞・雑誌の広告を見ると、彼らが今、何に昂奮し、何に悲憤慷慨しているか分かるから、そこが面白いのである。
一昨日、行きつけのスーパーの書籍部に立ち寄って「諸君!」7月号を見たら、奇妙なことに急にちょっと読んで見たくなったのだ。別に、内容に興味があったのではない。今月の特集記事は次の二つで、(「平成皇室 20年の光と陰」「全世界『反中クライマックス』」)例によってお決まりのテーマをお決まりのやり方で取り上げているに過ぎなかったのだ。全くこれは、衝動買いというしかない。
天皇を含む皇族について語るとき、日本人はどうしてこんなに敬語をべたべた並べ、自らを卑下した言い方をするのだろう。わが日本国の主権は、国民にあるのである。
例えば、京都大学教授の中西輝政である。彼は同胞に対しては傲慢不遜な物言いをする癖に、皇室に関することになると、「ここであえて臣下としての慎みを超えて直言申し上げたい」と、まるで下僕が土下座して主君に言上するような態度になる。
しかし彼が下僕のように平伏するのは天皇とその周辺に対してだけであって、皇太子夫妻に対してはまるで下僕に対するように非礼きわまる態度になる。皇太子妃が宮中祭祀に冷淡であることを責め、皇太子が天皇に即位するときには、「同妃の皇后位継承は再考の対象とされなければならぬ」というのだ。
これはどういう意味だろう。皇太子即位の暁には、雅子妃を離婚して外に放り出してしまえとでもいうのだろうか。
自らの忠誠を誇る右翼の学者・評論家の皇室に対する態度ときたら、自分勝手で押しつけがましく「慎み」の気配などいささかもないのだ。彼らは、現天皇が宮中祭祀に熱心であることを賞賛し、口をそろえて次期天皇もこれを見習うべきだと合唱する。
だが、宮中祭祀なるものは、血気盛んな若者にとってすら逃げ出したくなるほどの苦役なのだ。宮中三殿には空調がないため、夏の暑さ、冬の寒さは耐え難いほどだという。元旦ともなれば、天皇は早朝の暗いうちから出御して宮中三殿で四方拝の神事を執行するそうである。この時の衣装が衣冠束帯という古式ゆかしいものだとすると、寒気は骨に徹するほどに違いない。
こういう苛酷なことを天皇以下の皇族に平気で強要するのが、「幸いなるかな、日本には悠久の昔から政治権力を超越した至高の権威が存在する」などと美辞麗句を並べる右翼の面々なのだ。
この雑誌には56人の「識者」が、「熱誠の提言」をしている。けれども、この識者にはリベラル系・左翼系の人物は一人も入っていない。皆、真ん中から右に寄った学者・評論家ばかりで、右寄り度が高い皆さんほど、反皇太子・親天皇の傾向大で、宮中祭祀礼賛の声が大きくなるのだ。右寄り度の高いメンバーの一人秦郁彦などは、反皇太子の筆が滑って愛子内親王のことまで俎上に乗せている。これは、いけません。人間性を疑われます。
「小学生になった愛子内親王の表情も気になる。幼児らしい無邪気なスマイルをほとんど目にしたことがないが、病的環境のせいではあるまいかと心配する人は少なくない」
こんなことを市販の雑誌に書くのは反則行為なのだ。もし「病的環境」に近い家庭があるとしたら、皇太子一家ではなく、こういう掟破りの原稿を書く文筆業者の家庭ではなかろうか。大体、本当に皇室の将来を案ずるなら、天皇家父子の対立を激化させるような言説を慎むべきなのだ。
この雑誌を拾い読みしただけでも、現在見られるような天皇家父子の疎隔がどこから来ているか、おぼろげに分かってくる。
秦郁彦は、昭和天皇についてこう書いている。
「母の貞明皇后が弟の秩父宮を偏愛し、陸軍の将校たちの間にも文人肌の昭和天皇を敬遠し、秩父宮を担ごうとする動きがあった」
秩父宮が貞明皇后や皇道派の青年将校たちだけでなく、広く国民に愛されていたのは、彼がスポーツを愛し、外交官松平恒雄の娘勢津子と恋愛結婚するような開放的な人柄だったからだ。これと比較すると兄の昭和天皇は、万事大まかで、茫洋として、愚直で、大衆人気を得る要素がなかったのである。
しかし戦後になると、その点が国民に愛されることになったのだ。戦争が終わり天皇は国内各地を盛んに旅して歓迎の民衆に声をかけた。ところが、相手が何か答えても、天皇は「あ、そう」というだけで、それをフォローする次の言葉が出ない。だから、「あ、そう」は、たちまち国民の真似するところになった。昭和天皇は不器用で何の芸もなかったけれども、国民に話しかけるときの満面の笑みを見れば、その善意を疑う者はなかったのだ。国民が愛したのは、天皇のこうした愚直なまでの人のよさだったのである。
その天皇は、天皇制を守るために熱心に活動した。マッカーサー司令官のところにたびたび表敬訪問し、皇后もマッカーサー夫人を訪問しようとして、先方から辞退された。こういう天皇の行動を非難することは出来ないだろう。長い伝統を持つ天皇家を継承したものとして、天皇は自分の代で天皇職を失う訳にはいかなかったからだ。
講和条約発効後も天皇は米軍による沖縄占領の継続を望み、側近を使ってGHQに働きかけたとされる。これも在日米軍の傘の下で、天皇制を守る意図から出ていた。沖縄県民の間に、天皇制に対する反対意見が強いのは、沖縄が戦争の惨禍を最も強く受けことのほかに、こうした事情があるからなのだ。戦後、日本国内をくまなく回った昭和天皇が、沖縄だけに足を向けなかったのもこのためだったと思われる(公式には、沖縄訪問は病気のため取り止めになったとされている)。
現天皇は、父天皇から直々薫陶を受けたといわれる。しかし、子供は父親との接触が深くなれば、その弱点を目の当たりにして父とは逆の行動を取る傾向がある。天皇制を守ろうとする意志を同じくしながら、現天皇の方法論は昭和天皇とは自ずと異なってくるのだ。大まかで隙の多かった先帝と違って、現天皇は万事に慎重となり、天衣無縫だった先帝に比べ現天皇は事の軽重について計算を怠らないようになるのである。
現天皇は皇太子時代に沖縄を訪問して、火焔瓶を投げつけられている。これ以後、天皇は沖縄問題に強い関心を抱き、「琉球新報」「沖縄タイムス」を定期購読するようになったという。天皇が皇后と共に公務に精を出し、宮中祭祀を怠らないのも、世の批判に敏感になっているからだ。
だが、その旧套墨守のやり方を、子供が忠実に継承するとは限らない。天皇は皇太子の公務に関する改革案を聴取したが、意見の一致を見るには至らなかったという。当然ではなかろうか。
有識者56人の提言のうち、唯一異彩を放っていたのは黒田勝弘の「陛下、早く京都にお戻りを」という一文だった。彼は天皇制を存続させようと思ったら、皇室は時の権力と一定の距離を保つべきだと主張する。
「権力の中枢である首都・東京の皇居はよくない。まして武家(権力者)の居城跡などというのは実にまずい。皇室は首都・東京に存在するため、権力および俗にまみれることになるのだ」
最後に、日本で活躍しているある外人の見方を紹介したい。彼は天皇家父子の争いの背後に罪の意識が存在するというのである。天皇家が心に抱いているのは、一家が都内の超一等地に広大な住まいを構え、数百人の役人にかしずかれ、多大な国費を使っていることに対する罪悪感ではないかと彼は推測しているらしいのだ。
同様な感想は、観光バスの窓から皇居を眺め、国家予算に占める宮廷費の額を知った外国人のすべてが抱くところではなかろうか。日本人一般の生活と皇族の生活があまりにもかけ離れているから国民の好奇の目が皇室に集中するのだ。黒田勝弘の提言するように天皇家が京都に移り、学芸の伝承者として正倉院などの管理に当たり、その職務の報酬として年額一億円ほどの収入を得てひっそりと暮らすようになれば、皇后・皇太子妃が相継いで精神を病むような異常な現象はなくなるはずである。
われわれは井の中の蛙的視点から皇室問題を眺めるのではなく、もっと広い観点からこの問題を考えるべきではないだろうか。
(「諸君!」のもう一つの特集に触れるスペースがなくなってしまった)