<自虐の人・西郷隆盛>
西郷隆盛の数ある逸話のうち、ひときわ強く記憶に残っているのは、手水鉢の話である。
ある日、西郷隆盛が老母の隠居所に行って、何気なく厠の手水鉢に目をやると、鉢のなかにアオミドロが浮いていた。昔はトイレから出たら、手水鉢の水で手を洗ったのだが、水を替えるのを怠っているとアオミドロが浮いてくるのだ。
その日、食事時に西郷は家族一同の前で下女を呼んで、隠居所の手水鉢から水を汲んでくるように命じた。下女が茶碗に水を汲んでくると、彼は無言でそれを自分の飯にかけて食べはじめた。彼は老母の面倒を見ない妻子を咎めるかわりに、不潔な水を飯にかけて食べてみせるという自虐的な方法で一同を罰したのだった。
西郷隆盛は、何か意に添わないことがあると、他を責める代わりに自らを痛めつける癖がある。安政の大獄で勤王僧月照の身が危うくなると、西郷は月照を薩摩に連れて行って保護すると約束した。だが、藩庁は月照を匿うことを拒否して、西郷に彼を日向に連行するように命じた。途中で彼を斬ってしまえというのである。
西郷が選んだ方法は、月照と抱き合って錦江湾にとびこんで入水自殺することだった。月照への謝罪と藩庁への抗議の手段として、彼は自らの命を断つという方法を選んだのである。敬愛する藩主の島津斉彬が死んだときにも、彼は殉死を企てている。
こうしてみてくると、西郷隆盛が明治新政府に抗議して薩摩で兵を挙げたのも、彼の自虐的人生の集大成ではなかったかという気がしてくるのだ。軍事専門家だった彼は、僅かな軍隊で鹿児島からはるばる東京まで攻め上ることの無謀を承知していた。彼は敗北覚悟の自虐的行為として挙兵したのである。
明治維新が成功したのは、薩長土肥の官軍が西郷隆盛のもとに結束したからだともいえる。その意味で、西郷は中国革命における毛沢東や、インド独立におけるガンジーのような存在だったのである。西郷・毛沢東・ガンジーが国民的声望を集め得たのは、彼らが現状打破の高い理想を抱き、その実現に向けて無私の姿勢で突き進んだからだった。
目標を達した彼らは、第一線を退いて実務を後継者にゆだねた。だが、三人とも、その後の政治経過が気に入らず、後継者を相手に主導権奪取の闘いに乗り出している。彼らが高く掲げてきた理想が、現実と妥協した後継者の手によって歪められていると感じたからだ。
毛沢東は文化大革命によって劉少奇を打倒し、ガンジーはイスラム教勢力を排除しようとするネルー以下の国民会議派に反対した。そしてヒンズー教原理主義者によって暗殺されてしまう。西郷隆盛も盟友の大久保利通ら実務家を打倒するために兵を起こして敗れている。後継者との闘争に成功したのは毛沢東だけで、ガンジーも西郷も結局は非業の最後をとげている。
西郷とガンジーが失敗したのは、その生き方と政治手法に自虐的ないし自己破滅的な要素があったからだろう。たとえば、ガンジーは、事あるごとに断食を行っている。断食は、それを推し進めて行けば死に至るような危険な行為であり、自虐的、自己破滅的な方法なのである。
──こんなことを書き始めたのは、司馬遼太郎の「殉死」を読んだのを機に、彼の「翔ぶが如く」を読み始めたからだ。
私は「翔ぶが如く」が出版された昭和51年に、三冊続きのこの本を早速購入している。西郷隆盛を取り上げた長編小説だと聞いて興味を感じたのである。だが、2〜3ページ目を通しただけで読むのを止めてしまった。話がなかなか本筋に入らないので、うんざりしてしまったのだ。
久しぶりにホコリをかぶっていた三冊を取り出して読み始めたら、自分の記憶が如何にいい加減なものであるか分かってがっくりした。確かに一巻目の最初にパリに向かう川路利良の話が出てきて、それが延々と続きそうな気配があったから、途中で投げ出した理由も納得できた。
しかし、読みながら赤鉛筆で傍線を引いた箇所が、その先のところにもあったのである。
(おかしいな)
と思って調べてみると、赤鉛筆の傍線は一巻の最後の部分にもある。驚いたことに、私は第一巻を最後まで読み通していたのである。更に、びっくりしたことは、一冊目を最後まで読み、ちゃんと傍線まで引いておきながら、その内容を全く覚えていないのだ。
例えば、最初に傍線を引いてあるところは、こうである。
<薩摩系軍人と薩摩系警官とはたがいに郷党でありながら
仲がわるい。
すでにのべたように近衛の将校は城下士(他藩でいう上士)で、警
官は郷士で構成されている。城下士は郷士をいやしめる
ことはなはだしく、かといって郷士はたとえば土佐にお
けるように露骨に城下士と対抗するというほどの険悪さ
はなかったが、事と次第では積年の鬱屈のためにどう爆
発するかわからない。そうなれば、軍隊対警察の大喧嘩
になってしまう(「翔ぶが如く」)>
以下、傍線部分を探して読んでみたけれども、最初の傍線部分と同様に何も記憶に残っていない。
だが、傍線を引いてないところにはいくつかの興味を引く部分があった。
< 西郷という、この日本的美質を結晶させたという点で
ほとんど奇蹟的な人格をもつ男は、青春のころからつね
によりよき死場所をもとめて歩きつづけてきた。
死ぬために生きているという一見滑稽であるかもしれないこの
欲求は、たとえ滑稽であるにせよその場所をはずしては
西郷そのものが存在しなくなるのである>
西郷が死に場所を求めて生きていたという司馬遼太郎の見方は、自虐的行動様式に西郷の特質があるとする私の見方を極端にしたものといえる。司馬が人気作家になったのは、一般の読者が漠然と感じているイメージを極限化して、ぴしゃりと断定するからではなかろうか。
司馬は、西郷の抱いていた理想について次のように断定的に言い切る。
<西郷は武士の情や武士の理性だけが世の中を救いうると信
じている人であり、それが文明開化の世を築くというあ
らたな日本の大義名分のために惨落してゆくことを見る
に忍びなかった。>
西郷を突き動かしていた理想を、こう断定するのは司馬が征韓論にこだわりすぎるからである。西郷の愛用した言葉は「敬天愛人」であり、彼は万民のために献身する治者を中心にした儒教的な世界を理想にしていた。
だから彼は、以前は下級武士だった明治新政府の顕官たちが数千坪もの大名屋敷を買い取り、金ぴかの服を着て馬車を仕立てて外出するのを怒りの目で見ていた。西郷も倒幕のために飛び回っていた維新前夜の頃は、薩摩藩代表として相応の美服を着ていたが、明治新政府のトップとして参議・近衛都特督・陸軍大将などの役職についてからは極端に簡素な生活をするようになったのだった。
彼は豪邸を造らず、馬車も持たず、弟の西郷従道の屋敷に居候をしていた。普段着は単衣の着物一枚で、他には何も持っていなかった。政府のトップにいながら彼は自虐的なばかりに簡素な日常を送ることで、新政府の同僚を痛烈に批判していたのである。司馬は、「西郷が着たきり雀でいるということ自体がすでに反政府的行動だった」と書いている。
<「西郷のみは、廟堂で椅羅を飾っている政府高官や、民
衆に威張ることだけを能としている木っ端官員どもとは
まるでちがう」
ということは、不平士族のあいだでロから耳へと伝わ
っていて、いずれは世直しの祭神のようにされてゆくの
ではないかと川路は治安官の立場から不安におもってい
た(「翔ぶが如く」)>
こうして西郷隆盛は、破滅的な西南戦争に歩み出して行くのである。
第一巻を読み終えて、私はどうしてこの本を読んだことを忘れていたのか、その理由について思い至った。最初に読んだときには、西郷隆盛について特段の印象を持っていなかったのだ。だから、成る程、成る程と読んでいって、読み終わったら中身をすっかり忘れてしまったのだ。
だが、西郷について自分なりの意見を持ち始めると、それと比較対照して本を読むようになるから記憶に残るのである。西郷=自虐的人間というイメージが出来ていたら、「翔ぶが如く」全巻を興味を持って読了していたに違いない。