甘口辛口

孤高の画家(その2)

2008/9/17(水) 午前 11:51


(上図は、高島野十郎)
                     (下図は、川崎浹の著書)

<孤高の画家(その2)>


高島野十郎の経歴を調べるために、彼の評伝「過激な隠遁(川崎浹)」を取り寄せて読んだ。著者の川崎浹は早稲田大学の教授で、21年間の長きにわたり生前の野十郎と親しくしていたという経歴を持つロシア文学の研究者である。

その評伝によると、高島野十郎は九州久留米の裕福な酒造業者の家に生まれている。五男二女の子供達のうちの四男だった。長兄の宇朗は強い霊性を持ち、時折、「神憑り」の状態になるような男だった。宇朗は家業を弟に譲り、禅寺に入って修行した後に、上京して詩人になっている。彼の交友歴は多彩で、友人には岩野泡鳴、蒲原有明、青木繁らがある。

信じる道に突き進む宇朗の血は子供達にも流れ、息子の一人は共産党員になり、その妹も兄の後を追って入党している。高島野十郎にとっては甥と姪にあたるこの兄妹は、間もなく悲惨な死を遂げる。姪はアジトを警官に踏み込まれたとき、隣家に飛び移ろうとして転落し、以後寝たきりの状態になり、甥の方も逮捕されて刑務所に送られ、二人とも24歳の若さで死んでいる。

宇朗には、もう一人息子がいたが、これも禅寺に入って雲水の修行をしているから、彼がいかに子供達に大きな影響を与えたか分かる。高島野十郎が孤高の生涯を送ったのも、敬愛する長兄の影響力によるところが大きかったと思われる。宇朗は野十郎より12歳年長だったから、野十郎は宇朗に兄事するというより彼を父親のように考えていたのである。

野十郎は旧制第八高校を経て、東京帝国大学農学部の水産学科に入学する。成績は極めて優秀で、特待生になり、首席で卒業している。

大学を卒業した野十郎が、大学に残って学究の道を選ぶでもなく、民間会社に就職するでもなく、画家になると言い出したから近親者はこぞって反対した(父親は野十郎の在学中に死去。母も彼の卒業後に亡くなっている)。惣領の長兄が詩人になって徒食の生活を始めたと思ったら、今度は秀才の誉れ高い四男が画家になるといいだしたのである。

帰郷した野十郎は、行く先々で画家志望を変更するように忠告された。彼は一言も反論しないで、黙って話を聞いていた。長兄(後に禅寺の住職になる)さえ、「家庭も持てなくなるぞ」と反対したが、野十郎が志望を変えることはなかった。

一切の退路を断って上京した高島野十郎は、東京で画家としての生活を始めた。その後、彼がどのように生きていったのか、明らかではない。彼は東大在学中に24歳で「傷を負った自画像」を描いているけれども、野十郎がこれほど完成度の高い作品を描く技量をいつ何処で身につけたのかということすら定かでないのだ。

彼は特定の師について油絵を学んだとは思えないし、画家志望の仲間と研究会のようなものを作っていたとも思えない。野十郎は独力で学び、自力で研究して、あの「細密写実画法」を身に付けたのだ。ここに高島野十郎という無名画家の比類のない独自性があるのである。

水産学科に籍を置いていた彼は、魚類や水棲動物を精密に模写した図版をいくつも残している。これらは学術用に使用されるものだから、一点一画をおろそかにせず、正確に描かれなければならない。彼は写真のように精密な生物図を描いているうちに、一種の法悦のようなものを感じ始めたかもしれない。一筆一筆に宗教的な祈りをこめて対象を模写することに敬虔な喜びを感じ始めたのである。

高島野十郎は終生、「絵を描く」とは言わなかった。描くのではなく「研究する」と言い続けたのだ。彼にとって絵を描くということは、対象の真を研究することに他ならなかった。

それにしても、「傷を負った自画像」の異様はどこから来るのだろうか。

この絵の中の野十郎は、唇・首筋・脛の三カ所から血を流している。これらは転んで傷ついたとは思われない。自虐と呪詛の表情を浮かべているところを見ると、喧嘩でもしたのだろうか。高島野十郎の不思議な生涯を解く鍵は、この絵の中にあるように思われる。

(つづく)