甘口辛口

孤高の画家(その3)

2008/9/19(金) 午後 7:43


(写真は畑の中の野十郎宅、下図の人物は野十郎)

<孤高の画家(その3)>


「日曜美術館」を見ていて、もう一つハッキリしなかったのが高島野十郎はどうして生活費を捻出していたかという問題だった。

彼は一枚の作品を仕上げるのに、2年間をかけるのが普通だったという。しかも、その作品は週刊誌かグラフ雑誌程度の大きさしかないものが多かった。そんなものに2年もの時間をかけて描いていたとしたら、収入は微々たるものだったはずである。にもかかわらず、彼は40才になってから、4年間もヨーロッパに留学しているのだ。としたら、彼は資産家だったという実家から扶養されていたのだろうか。

この疑問は川崎浹の書いた評伝を読むことによって、ほぼとけた。著者川崎浹が東京青山にあった野十郎のアトリエを訪ねたら、板張りの床にたくさんのカンバスが置かれていたというのである。これらが制作途上のカンバスだったとしたら、彼は同時並行的に多数の作品に着手しており、それらに少しずつ手を加えていった結果、どれもこれも完成するまでに2年内外の歳月を要したのである。「雨 法隆寺塔」という作品の如きは、完成するのに17年かかっている。

こういうやり方なら、5〜6年もすればある程度の量の作品が出来上がるから、定期的に個展を開くことができる。野十郎には、個展による売り上げがあっただけでなく、大学時代の仲間や知己になった医者などがパトロンになって絵を買ってくれたし、故郷の親戚たちもちょいちょい作品を購入してくれていた。

こうして、野十郎は実家の援助がなくても生活を維持することが出来たのだった。それにしても、大学を卒業して85才で死ぬまで、60年間をたった一人で破綻なく生きた野十郎に、寂寥感や惑いはなかったのだろうか。

明治23年に生まれた彼は、中学生の頃に日露戦争を体験し、青春真っ盛りの20代に大正デモクラシーの洗礼を受け、壮年期に軍国化した日本が破滅に向かって進行するのを見ていた。そして50代半ばで日本の敗戦に遭遇し、昭和50年に85才で死去するまで、鳴かず飛ばず、市井の無名画家として淡々と生きたのである。

高島野十郎は、85年の生涯を完全なアウトサイダーとして生きた。こうした人生を送る芸術家には、密かに女を養っているものが少なくない。だが、野十郎は女色にも無縁だった。渓流の絵を描くために奥秩父に逗留したとき、夜、宿の女将が、「暑いでしょう」といって彼の寝ている蚊帳の中に入ってきて団扇で扇いでくれたりした。そんなときにも、野十郎は取り合わずに本を読んでいた。彼は女性から贈られた品々を捨てるか、その場に置き残して立ち去るのを常にしていた。

野十郎の85年は、細密写実画を描くだけで終わった人生だったのだ。

彼は同時並行的にいくつもの作品に着手し、そのカンバスを一枚ずつ取り出しては手を入れ、行き詰まれば別のカンバスを画架にかけて丹念に色を塗っていった。気分転換のためには、自分で使う家具を作ったり、家の補修をした。細密画を得意とした彼は、細かな手仕事にも妙を得ていたのである。

こういう野十郎にとっては、長い年月をかけて描きあげた作品の一つ一つが家族であり、自己の分身だった。だから17年かけて完成した「雨 法隆寺塔」という作品を世話になった知人に譲るときに、玄関まで送りに出た彼の目に涙が溜まっていたのである。

高島野十郎は絵を描いていれば、幸福だった。
東京オリンピックのための道路拡幅工事のため、青山のアトリエを追われた野十郎は千葉県の増尾に移り、野菜畑のうち続く静かな場所にアトリエ兼用のささやかな家を建てた。家にはアトリエの他に寝室と台所があり、間口三間・奥行き二間という物置のように小さな住まいだった。

水道も電気も来ていなかったので、夜は石油ランプで過ごした。入り口の戸には複雑な仕掛けがあって、野十郎でないと開かない仕組みになっていた。椅子も手製なら、ベットも藁を芯にして布で包んだ手製のものだった。

彼は訪ねてきた川崎浹に、「ここは人っ子一人通らず、私にとっては天国だよ」と語ったという。野十郎は隣の田の一部を借りて池を作り、そこに睡蓮の花を咲かせて、「睡蓮」という作品を描いたりした。

(つづく)