(上段:アトリエの野十郎)
(中段:「渓流」)
(下段:「雨 法隆寺塔」)
<孤高の画家(その4)>
高島野十郎は、静かに生きた。
彼は師にもつかず、仲間も作らず、同伴者なしの人生を歩んだ。彼は制作中心の生き方を求めて、こうした一人だけの静かな人生にたどり着いたように見える。つまり、彼の孤独な人生は、作為したものではなく、野十郎のような人物が自然に落ち着く生き方に見えるのだ。
野十郎の研究者たちは、彼が写実に執着した理由を形の奥にある原型を探るためだったと主張する。野十郎はノートに、
「花一つを、砂一粒を人間と同物に見る事、神と見る事」
と書き残しているから、彼がすべての物の内包する神性のようなものを描こうとしたことは間違いないかも知れない。だがそれだけでは、十年一日のように絵を描き続けた理由を説明できない。
彼のエネルギー源は、現実への飽くなき闘志にほかならなかったのではないか。彼が画壇と無関係に生きたのは、自然にそうなったのではなく、自ら語っているように「世の画壇と全く無縁になること」を彼自身が意図したからだったのだ。
野十郎は画壇と関係することを避けただけではなかった。彼は自分と社会との間の接点をすべて切り払って、極力現世と無関係でいたが、時には外部と交渉しなければならなかった。彼はオリンピック道路の拡幅工事で東京青山の住まいを追われているし、やむを得ず移り住んだ千葉県柏市増尾の住居からもアパート建設工事のため転居を強いられている。こういうときに、野十郎は訪ねてきた関係者と激しく争っている。彼は現実と対峙する闘志を秘めていて、相手と交渉するに当たっても一歩も引かず、持久戦に持ち込んでいるのである。
彼はアウトサイダーとして世俗を強く拒否していたから、最後に誰にも看取られず野垂れ死にすることを覚悟していた。最晩年の野十郎は、千葉県内の特養ホーム鶴寿園に運ばれたが、この時彼はアトリエの柱にしがみついてテコでも動かなかった。それで、係員が指を一本一本剥がすようにして連れて行かなければならなかったという。
<本人は死の間際にも、「自分は本当はだれもいないところで野たれ死にをしたかった」と言って涙したそうだ。・・・・・高島さんはだれにも構われず自然に死にたかったのだ・・・・・
「野たれ死に」の概念は宗派とか教義との関係で異なるらしいが、私は高島野十郎がどんな独自の「野たれ死に」を念願していたのか、そこまでは知らない。作家のチェーホフも「私は行き倒れて塀の下で野たれ死にするだろう」と言っているので、一般には「野たれ死に」とは行き倒れとか餓死を意味する。野十郎は一人で歩いてきたので、一人で死にたかったのだろう。(「過激な隠遁」川崎浹)>
高島野十郎が内心で現世と激しく対峙していたことを考えると、「傷を負った自画像」に見る自虐と呪詛の表情も自ずと理解されてくる。この作品は写真のようにリアルに描かれながら、表情だけがデフォルメされて非現実的に描かれている。これはどうしても現実と折れあえず、自分の将来を野垂れ死にと思い決めた若者の表情である。この絵を描いた20代の頃から、彼は社会に対して怨念を抱いて生きていた。この怨念こそが、60余年の間、一日も休まず彼に絵筆を握らせたエネルギー源だったのだ。
(つづく)