(信濃毎日新聞より)
<いい文章とは?>
いい文章とは、やまと言葉で書かれた情感豊かな文章ではないだろうか。
例えば、朝日新聞の女性欄に載っている「ひととき」のような文章である。「ひととき」というタイトルは、家事が一段落してほっと一息ついた家庭の主婦による投稿を集めた、という意味で命名されたのだろう。「ひととき」欄に掲載される投書は、まさにそんな感じの気取らない文章が多いのである。
朝日新聞と併読している「信濃毎日新聞」には、「ひととき」と同じように読者の投稿による「生活雑記」欄がある。この方は、投稿者を女性だけに限定していないから、老若男女の文章が載っている。昨日のこの欄には、永原宗夫という72才の男性の文章が載っていた。「ひととき」とは違って情感を押さえた淡々たる文書で、その抑制した筆致に心を打たれた。
── 題名は、「母のこと」となっている。
私がものごころついた頃
には、母は村役場へ勤めて
いた。
朝食を済ませた母が玄関から出
ると、私は縁側に出て声
をかけた。「行ってらっ
しゃい」。そしてさらに
縁側から身を乗り出し
て、「行ってらっしやい」
を後ろ姿へ繰り返した。
母は曲がり角まで行くと
振り向いて、「いつも言
ってるでしょ、行ってら
っしゃいはねぇ、一度で
いいの」と言って坂道を
登っていった。
この筆者が、出勤する母に何度も声をかけた理由は、直ぐには分からない。中ほどまで読み進んで、ようやくその理由が理解されるのだ。
昭和十二年十二月、父
は中国の南京攻略の際に
戦死した。弟が生まれた
のは、その一カ月後。父
は二人目の子を見ないま
ま逝った。父と母が一緒
に暮らしたのは二年に満
たなかっただろう。戦争
は若い夫婦を引きちぎ
り、一方を還らぬ者にし
てしまった。
妊娠中の妻を残して出征した父は、戦場について直ぐに戦死してしまった。母は戦死の通知のあった一ヶ月後に出産する。うら若い未亡人になった母は、幼い二人の子供を育てるために、役場に勤めることになる。
家に残された筆者が役場に出かける母に何度も声をかけずにはいられなかった理由は、ここまで読んできてようやく分かるのである。母は戦中・戦後を必死に生きた。
そしてその母も、私が
国民学校の四年生になっ
たばかりの四月に亡くな
った。風邪をひいて熱を
出したが、終戦の翌年だ
ったので、薬がない。お
医者もいない。水枕と濡
れ手ぬぐいだけで、母は
逝ってしまった。
小学校四年で両親に死なれてしまった筆者が、その後どんな風に生きたのか一言も書かれていない。両親を失って弟と二人だけになったさびしさにも触れていない。
その代わりに筆者は、両親の結婚には何か事情があったらしいことを記すのである。
亡くなった父方の祖母
によると、「宗夫だれ(た
ち)の母ちゃば、昭和十
年五月に東京から嫁に来
たんだ」という。「父ち
ゃがどうしても母ちゃを
嫁さんにほしいってせう
んで、じい(祖父)と二
人で汽車に乗って、東京
の家までもらいに行っ
た」のだそうである。
母と父がどうやって出
会ったのかはわからな
い。昭和ひとけたの時代
に、東京にいた母と、田
舎にしかいたことがない
父が知り合っていたなん
て。母方の祖母にも聞い
てみたが、「宗夫も大き
くなれば自然にわかるこ
となのよ」というだけで
教えてはくれなかった。
ここでも筆者は事実を述べるだけで、両親がなぜ結婚したのか、その理由を推測していない。母方の祖母が、「大きくなれば、自然に分かることだ」と言ったのだから、成長した筆者には大体の見当はついていると思われるが、筆者は沈黙を守っている。
この自らの感情について何も語ろうとしない禁欲的な文章は、最後になってちらりと心の一端をのぞかせるのだ。
母の生家は東京の多摩
にあり、宅地は屋敷林に
囲まれている。天気の良
い日には、西の空に高尾
の山と富士山が見えた。
昨年の秋、久しぶりにそ
の家を訪れ、昔、母と歩
いた丘の上へ行ってみ
た。陸橋の下を中央線の
電車が過ぎて行き、上弦
の月が私を見つめてい
た。
丘の上に登った筆者は、自分を見つめるように光っている上弦の月に母を感じたと思われる。しかし、それについても筆者は何も語らない。
これが男の書く文章なのだ。自らの情感を押さえることによって、かえって読むものに深い印象を与えるのが、「ひととき」とは違う男性の文章なのである。