<隠遁主義者の人生観>
最近、当ブログを読んだKさんという人から次のような質問が寄せられた。Kさんは、ブログへのコメントという形で以下のような質問をしてきたのである。
<隠遁主義者が行き着く人生観というものはどのようなものかを知りたいのです。
少なくとも、今の私には、何か行動を起こしている者を批判するようなことはできません。もちろん好き嫌いはありますが、その全てに対して敬意は払うべきだと考えています・・・・・・・
是非、私の質問にお答えいただきたく存じます>
私は困惑した。私には隠遁主義者を代表して人生観を語るような資格はないし、もしあったとしても、簡にして要をえた説明をする自信はない。コメント欄には、制限文字数があって、あまり長い文章を書くことは出来ないのだ。
それで、返答は遠慮しておこうと思ったのだが、Kさんからは以前にも詰問に近い形で質問を投げつけられている。だいぶ前のことになるが、Kさんは最初次のような穏やかな文章で質問してきたのである。
<時々読ませていただいている三十代前半の者です。
私も、あなたと同じような遁世的な考えを持っています。
だからこそあなたの心理を感じることができるのですが、あなたは、心の奥底に煩悩的な欲望を強く持っているはずです。
カネ・女・名誉…
煩悩の限りを尽くして遊び、感情のままにたわむれる人生を虚しいと一蹴しながらも、どこかでそれらに憧れているあなたがいます。
それを、あなたは認めますか?
このことは、是非訊ねてみたい、と前から思っていました>
こういう質問なら、こちらも躊躇なく答えることが出来る。私は煩悩を山ほど抱えているし、これまでバカの限りを尽くして生きてきてもいる。しかし、怠け者の私は、目的を達するまでの手順を煩わしいいと感じる上に、怠け者で努力することも嫌いだから、結果として何もしないで無欲に見えるような生き方をしている。だが、そのように見えることを世間では無欲と呼ぶのだから、この意味では私は無欲な人間なのである。
まあ、こういう趣旨の返答をしたところ、Kさんは満足しないで、怒りを秘めて再質問をしてきた。
<世間の人たちは、「手順が面倒」なものであっても自らの夢・目標に向かって突き進むものです。人間社会が成熟してきたのは、そうした人たちによる恩恵です。
・・・・・・あなたのこのブログでは、まるであなたは神であるかのように、「世俗」を見下しています・・・・・
人は、動けば恥をかくこともあります。他人に迷惑をかけることもあります。しかし、それが人というものではないでしょうか?
動かないあなたは、このことに関して、どうお考えなのでしょうか?
ご意見をうかがいたいと思います>
(成る程、分かったぞ)と私は思った。Kさんは他人を見下したように見える私の「文体」に腹を立てているのだ。これには、私も返答のしようがなかったから返事をしなかった。すると、返事をしない私に対して、Kさんは歯を剥いてきのである。
<自分は何もしていないのに、「している者」を高見の見物ですか?
このことについて、あなたは恥ずかしさを感じませんか?
・・・・・しかし、何も行動を起こさない者が、起こしている者を批判することは、とても恥ずかしいことではないでしょうか?
あなたは、このことについて、自分に一切の疑問をお持ちになっていないのですか?
それとも、自分の恥ずかしさを理解した上で、書き込みを続けていらっしゃるのでしょうか?
私も同じ隠遁主義者として、このあたりの心理は是非知りたいところです>
Kさんは隠遁主義者だと自認しながら、行動至上主義者の立場から私に噛みついている。Kさんの質問そのものが漠然としているため、私には返事のしようがなかった。
Kさんは私を「高見の見物」だと責める前に、ご自分の心理を観察すればいいではないか。隠遁主義者の心理を知りたかったら、隠遁主義者であるご自身を観察すれば足りるのである。
そう思って沈黙を守っていたら、Kさんは冒頭にあるように再度、隠遁主義者の人生観を問うとコメントしてきた。何度も問いを投げかけられながら黙っているのは、ブログ作者としての仁義に反する。何とか答えなければならない。
──私はKさんが隠遁主義者でありながら、行動至上主義的発言をするのはおかしいと書いたが、こういうダブル・スタンダードにこそ人間性の秘密が宿っているとも思うのだ。
私は学生時代には学生運動を、教員になってからは組合運動をやってきた。だが、その半面で私くらい会議や研究会、コンパや宴会の嫌いな人間はいなかった。立場上、これまでに数え切れないほどの会議や研究会を経験してきたが、得るものはほとんどなかった。会議ですばらしいプランを知らされても、性格的にそのプランを消化するだけの柔軟さを欠いていれば、それらは当人にとって無用の長物になるのである。
私はコンパや酒宴に参加しても、愉快に笑ったり歌ったりしている仲間を眺めているだけだった。(この世はあの人たちのものだな)と傍観していたのである。
性格学者が「老年志向型」と命名したように、こういうタイプの人間は意外に多い(こうした人間の内面を描いた小説に、トーマス・マンの「トニオ・クレーゲル」がある)。彼らは対社会的に活動しながら、心の中では固有の世界を守り続けている二重生活者なのだ。
この世にはダブル・スタンダードで生きている人間が多いのに、それを無視して国民全体をワンパターンに染め上げようとする勢力がある。戦前の日本を「美しい国」だったと賛美する安倍晋三ら右傾国会議員やタカ派文化人たちだ。だから、老年志向型の隠遁主義者も、やむを得ず彼らと一戦を交えなければならなくなる。
戦前の日本は、旧制中学校や高等女学校でダーウィンの進化論を教えながら、同時に天皇は現人神と教える国だった。生身の人間を神だと教えるような国はどこにもなかったから、外国人はわが国を、「発狂した国家」と呼んだのである。発狂した国では、軍隊は国民のために戦うものではなかった。兵士は天皇の私兵であり、天皇のために戦い、天皇のために死ぬことになっていたのである。
この国も戦後になって正気を取り戻したように見えたが、狂気の気配は未だあちこちに残っていて、麻生首相は議会での初の所信表明の際、「かしこくも、御名御璽をいただき、第92代内閣総理大臣に就任いたしました」と述べたり、柔道の石井慧選手は、「オリンピックでは天皇陛下のために戦いました」と語ったりしている。
隠遁主義者がこうした風潮と戦うには、「態度」で示すだけでいいのだ。
タカ派的お国自慢的愛国主義に対して、不同意の姿勢を示すのだ。心の中で、タカ派と対峙しつづけるのである。
人類は進歩しつつあり、右派もタカ派もいずれ消滅する。これ以上確かなことはないのだから、私たちは妄動しないで、彼らが消滅するまで静かに待ちの姿勢をとり続ければいいのである。
「人生観」というほどにまとまっていないけれど、これでご勘弁を。