(写真は、母ミホと伸三・マヤ)
<「死の棘」の子供たち(1)>
「死の棘」というのは、空恐ろしい作品である。
島尾敏雄は、この作品で夫に浮気をされて精神に異常を来した妻を描いたのだが、普通この種の作品は第一ステージで妻の狂態を描いておいて、第二ステージでは夫婦関係が破綻するか、和解するか、とにかく解決編にたどり着くことになっている。ところが、この作品では妻が夫をなじり、夫が土下座して謝る場面が延々と続き、そのまま最後まで行ってしまうのである。
狂った妻は、一旦夫に謝罪させて落ち着きを取り戻す。けれども、直ぐに原点に戻って怒りに燃えて夫をなじりはじめる。謝られても彼女の内部で何も問題は解決されていないのだ。こうした描写が切りもなく続くから、読者は自分が狂った女と生活を共にしているような暗澹たる気分になるのだ。
この作品には、妻と愛人が庭でつかみ合いの喧嘩をする場面が出てくる。夫は、地面を転がる愛人が見覚えのあるパンツをはいていることを認める・・・・。こうしたリアルな描写を随所にはさんでいるから、読者は読んでいるうちに無間地獄に落ち込んだような気分になるのである。
島尾夫妻は、争いを始めると互いに夜と昼の区別が付かなくなってしまう。夫婦には幼い兄妹がいた。一体、子供たちは、昼夜の別なく陰惨な争いを続ける両親をどんな目で見ていただろうか。
そうした疑問を持っていたから、息子の島尾伸三が父を回顧する本を出したと聞いて早速それを手に入れて読んでみた。「小高へ」と題するこの本には、「父 島尾敏雄への旅」という副題が付いている。
だが、読み始めて拍子抜けがした。本には、島尾敏雄のことも、その妻である島尾ミホのことも僅かしか触れてなくて、叙述の大半は子供の頃に住んでいた小岩の風物や父のふるさとや親戚のこと、そして高校時代に父と旅した琉球への紀行文で占められていたからだった。
例えば、最初の方に次のような文章がある。
< 妹、マヤの死は、十年経っても、私を悲しませるのに充分です。
どうして彼女を、狂った母の家から救い出せなかったのか……とです。
闇のなかに今も輝きつづける霊であることを私は知っています。暗い気持ち
になっている時には、特にそれを思い知らされるからです。
一度は救い出すことに成功したのですが、三年経ったころに、また母に引き
戻されてしまい、マヤはそれから八年もしないうちに、骨だけにまで痩せ細っ
て、死んでしまいました>
こうした文章を読めば、誰でもことの詳細を知りたくなる。しかし、この事については、著者はこれ以上何も触れていないのである。
両親が自分たちの問題にかまけて、子供たちに注意を払わなかったから、妹マヤの面倒は二歳年長の伸三が見なければならなかった。
< マヤはどこへ行っても両親の後を追いかけません。だから、私が、おしっこ
やうんちの世話をしなければならないのです。電車に乗っていても、「おにい
ちやん、うんち」って、言うんだもん>
母は、子供の面倒をあまり見なかったが、夫に死なれ、息子が結婚して独立すると未婚の娘マヤを手元から離さなくなった。精神の安定を欠いている母は、身近に誰か肉親がいないと不安なのだ。母は娘を必要としていながら、自分の要求を娘に押しつけるだけだった。彼女は、以前に夫を責めることで夫を支配していた。今度は、自らの理不尽な要求を娘に押しつけることで娘を支配するのだ。
だが、著者は母を一方的に断罪してはいない。夫の浮気を知る以前の母は、映画好きの明るい女性だったのである。
<おかあさんの好きなアラン・ラツド主演で、たてつづけに三、四回は見た
「シェーン」・・・・・
このころのおかあさんは陽気なものが大好きで、明るい洋画と、トニー谷や
兵隊生活を笑いものにした柳家金語楼というコメディアンの主演する映画や、
ラジオの落語や漫才を聞くのが大好きでした。おとうさんがお笑い芸人を好き
になった1960年ごろには、おかあさんは冗談が判らない人になっていまし
た>
だから、著者は別のところに、こうも書いている。
<楽しいことを考えるのが得意だったおかあさんの夢を、片っ端から壊
したのは、外出が多くて難しい顔ばかりしていたおとうさんに違いありません。
私は今だって「おとうさんのバカ」と、言いたいです>
では、今は写真家になっている著者は、どのような少年だったのだろうか。
彼は高校生の頃に落第して一年生を二度やっている。彼は、自分の先天的な素質を母から受けていると述べる。
<先天的な要素をおかあさんに、後天的な要素をおとうさんとおかあさんの暮らしぶりから見出せるかもしれません>
小学校一二年生頃の彼には、奇妙な振る舞いが多かったらしく、両親は何度も息子を精神病院に入れようとしたという。30になった息子が恋愛を始めたときにも、両親は彼を精神病院に入れようとした。
確かに、この本を読んでいると、ちょっと変だなと思う箇所がある。後半の方に、「琉球旅行」という章があるのだが、これが奇妙なのである。これは、「ユリイカ」という雑誌社から父親の思い出を書いてくれと依頼されて執筆したものだった。
彼は、「この作文は出版社の注文に従って書きはじめています」と断ってから原稿をスタートさせる。そして、あっけらかんと、「注文の枚数をとにかく文字で埋めさえすれば、幾ばくかの支払いを受けられるはずです。・・・・それにすがりつかねばならない無職の私です」と打ち明けるのだ。原稿の終わりは、「書きかけですが、この作文をこの辺りで終わりにします。出版社の注文の枚数に達したようだからです」となっている。
注文の枚数だけはキチンと守っているが、島尾敏雄のことを書いてほしいという要望にはほとんど応えていない。父親について語る代わりに、彼は自身について多くの筆をついやしているのである。文中で彼は自分自身をしきりに責める。
<自分を犠牲にする愛に無関心でした。神の声から逃げ回ってきました。知り
合ったり好きになった人の幸福を食い荒らし、迷惑をかけ、傷つけ、都合が悪
くなると逃げだすということを繰り返してきただけなのです>
そして自身の「病歴」についても、ありのままに語るのである。
<中学のころから落ち
着いて字が読めない病気が続いているのです。ノートに数行も字を書くと、頭
が混乱して、字が書けなくなるのです。人の話も、一人の話を聞いているのが
我慢出来ないのです。じつとしていると頭のなかに幻覚のような声が、不愉快
な別の話を幾つも始めるのです。数人の人が別々に話していると落ち着くのに
です。教室が騒がしくて、友達とふざけ合っていると、同時に読書に集中出来
るのです。これでは勉強なんて出来っこありません>
最後の章は、「骨」となっている。島尾敏雄の葬儀の場面を取り上げているこの章まで読み進んできて、初めて読者は飢えを充たされたように感じる。島尾家の実像が紙背から浮かび上がってくるからだ。
(つづく)