<人相の話>
「宝くじ殺人」の容疑者とされる男の写真が、大写しになってTVに出ている。一見していい人相をしている。思慮分別をそなえた優しい50男のように見えるのだ。
女子高校生を誘拐して親に金を要求した書道・算盤塾教師も、なかなか立派な顔をしていた。まるで悟りを開いた名僧のような重々しい風貌をしていたのである。逮捕された彼は、顔を隠すような真似をしなかった。堂々と前を向いて、威風あたりを払うような態度で連行されて行ったのである。
二人の犯行は、その人相にそぐわないように見える。だから、人相と人格は全く関係がないと思われがちだが、彼らに関する報道を見れば、人相と性格の間にはやはりある種のつながりがあるのである。
宝くじ殺人の容疑者は、別れた元妻の証言によると、「寝るところがあれば、どこでもかまわない」というような性分だったという。事実、彼は一緒に暮らす女が誰であろうと構わなかった。妻の他に二億円を当てた女と所帯を持ち、その後、スナックのママと深い関係になり、東京に出てきてからはラオス人の女を妻にしている。
女性との関係で、イージーで締まりのなかった彼は、金銭問題でもいい加減だったようだ。女を殺した後でスナックのママに8000万円余を入れあげた挙げ句、逃げるように上京するのだが、この時彼は借りていた住まいに複数の預金通帳を残したままにしている。通帳に記載されている預金額は2000万円近くになっていて、他にもスナックのママに貸した2000万円の証書もあったという。彼は4000万円相当分の通帳・証書を机の引き出しに置いたままで上京しているのである。
彼は寝るところがあれば、どこでもいいという根無し草のような性格だった。女を殺して二億円を手にしても、その金に執着する様子を見せない。結婚したり、同棲したりしても、相手の女に縛られることもない。まるで風まかせのような生き方をしているのである。
報道によると、どこに行っても彼の評判は異常なほどいいらしかった。女にも金にも執着せず、周囲に笑顔で接していたから、評判がよくなるのも当然だった。彼は悪党だったかも知れないが、その人相の示すような優しさを幾分かは持っていたのである。
女子高生を誘拐した塾教師も、周囲から一目置かれるようなところを持っていたらしい。塾に通っている子供たちは、彼のことを怖い先生といっていた。事実、彼は言うことをきかない子供を殴ることもあったという。子供の親たちは、彼の厳しい指導法を容認していた。彼は評判のいい塾教師だったから、近くの高校の講師にも任用されたのである。
しかし、すべての人間が人相の示すような性格を持っているわけではない。個人的な印象で言えば、人相と性格の間に全く関連のないような人間も30パーセントくらいはいるのである。何時も笑顔を絶やさない優しそうな人物が、本当は自分のことしか考えていないエゴイストだったり、厚い胸板を持った屈強な男が、実は吹く風にも驚く臆病者だったりする例は少なくない。
私は昔、とんでもない思い違いをしていたことがある。大相撲に麒麟児という関取がいて、土俵に上がると妙な格好でマワシをパンパンと叩いたり、亀のように首を引っ込めたりのばしたりして観客の笑いを買っていた。彼はそれらの動作を観客へのサービスでやっているのではないらしかった。だから、私は(この相撲取りは少し足りないのではないか)と決めていたのだった。
ところが、あとで知ったところによると、麒麟児は力士の中では一番の読書家で、非常に聡明な男だということだった。土俵上で滑稽なしぐさをするのも、彼が極めて繊細な神経をもっているためらしかった。土俵に上ると、緊張過多のためああしたことをしてしまうのである。
実際、人相を見ただけでは判別の付かないのが、利口か阿呆かということなのだ。とりわけ、美女たちの知能程度は外から見ただけでは全く見当が付かない。「美しい女が、美しく見えるのは、利口そうに見えるからだ」という言葉がある。美女たちは常に自分を美しく見せようと努力している。その工夫の結果が、はからずも彼女らを聡明そうにしてしまうのだ。
──だが、そもそも「人相」とは、何だろうか。
顔の形は体型を象徴するものだから、やせ形の体型の所有者は長顔になり、肥満型のものは丸顔に、がっちりタイプは角顔になる。だが、顔の形そのままでは人相といわない。
私が成る程と思ったのは、中高の顔をしたものは攻撃的・積極的な性格を持っているという説だった、鼻が高く額や顎の後退した中央突出型の顔をした人間は攻撃的で自己顕示欲が強いというのである。反対に中央陥没型の顔、つまりおでこが張り出ていて、その下に小さな鼻がついているタイプは、才能に恵まれてはいるが内気のため目立たない。
この二項対立式の見方で、まわりを眺めると、本当にその通りなのだ。世の中には、人を押しのけて前に出ようとするタイプと、万事控えめに生きているタイプがあり、前者には中央突出型の顔をしたものが多く、後者には中央陥没型の顔をしたものが多いのだ。
人相というのは、顔の形だけでなく、性格の指標になるようなもろもろの「部品」も判断基準に取り込んでいなければならない。例えば、目の大きなものは周囲のすべてに関心を持ち、全体を受け入れようとするのに反し、目の小さなものや細いものは全体の中の一部分だけを選択的に受容するというような観点を取り込む必要があるのだ。西郷隆盛のような巨眼タイプは、身の回りのすべてに目が行き届き、それらに広く愛情を注ぐ。だが、関心が近くのものに限定される結果、遠くが見えなくなるという欠点を持っている。だから、西郷は身近な失業武士たちを救済するための征韓論のようなものに執着してしまう。
大久保利通は小粒の目をしていたから、選択的にものをみて失業武士などのことは考慮しない。その分彼の視線は遠く世界にまで及んでいたから、優先事項は日本を近代化することにあるとして、西郷の征韓論に反対したのである。
人相を、貴族型と庶民型に分ける分類法もある。分かりやすくいえば、公家顔とひょっとこ顔に分ける見方だ。この分類法によれば、小泉純一郎は公家顔で、麻生太郎はひょっとこ顔ということになる。
近衛文麿・細川護熙・小泉純一郎というような公家顔の系統は、中央突起型の顔をしている。彼らは初めこそ積極的に事に当たるけれども長続きしない。嫌になったり困難にぶつかったりすると、無責任に政権を投げ出してしまう。彼らは基本的に自己本位なのである。心情の底では、国民の未来のことなど知ったことかという冷たさを隠している。
ひょっとこ顔の麻生太郎は、下世話に砕けてまわりの人気者になることを好む。このタイプの元気回復法は、気の置けない仲間と酒を飲みながら馬鹿話をすることだから、麻生も一日が終わると、ブレーンを誘って料亭で食事をし、その後でホテルのバーに押しかけて一杯やるのである。これには耳学問でブレーンから知識を仕入れるというプラスもあった。
勉強が嫌いで、学習院大学時代の成績は二百何十人中の二百何十番だったという麻生太郎は、昔から系統的な勉強をする代わりに耳学問で済ませてきた。彼の失言の多さもこうしたところから来ている。