<境涯の詩>
日曜日の朝日新聞を読んでいくうちに、珍しい現象にぶつかった。日曜の新聞には、短歌・俳句欄があるのだが、ここに私が初めて目にする奇現象が発生していたのだ。
新聞社では全国の読者から寄せられる短歌と俳句を、それぞれ数人の選者に選ばせて掲載する。すると、短歌の部では複数の選者によって選ばれる作品が必ずあらわれ、それには読む者の便を図って印がついている。しかし、俳句にはそうしたことがなくて、毎回、無印の作品ばかりが並んでいたのである。ところが、今回初めて複数の選者によって選ばれた俳句が三句、印が付いて出現したのだ。
俳句欄に無印の句ばかり並んでいたのには、ちゃんとした理由がある。
何しろ、俳句はわずかに17文字からなる短詩型だから、それ自体ではあまり衝撃力がない。俳句が意味を持ち、味わい深く感じられるのは詠者の境涯と重ね合わせて読まれるときに限るのだ。
例えば、石田波郷に次のような作品がある。
白き手の病者ばかりの落ち葉焚き
石田波郷が結核患者として長い間療養所で暮らしていたことを知れば、この作品は一層味わい深くなる。結核患者には、5年、10年の長期療養患者が珍しくない。作者も長期療養患者の一人だったから、火にかざす自分たちの手の白さがことさら意識されたのだ。
俳句はあまりにも短すぎるため、作者の境涯と合わせて初めて十全に鑑賞されるというマイナスがある。そこに行くと、短歌はもっと多くの文字を使えるから、作品の中に詠者の境涯をあらかじめ詠み込むことができる。上掲の句でいえば、短歌で詠じようとすれば「病者」が結核療養所の長期患者であることを明示できるから、作品を鑑賞するに当たって改めて作者の境涯を知らなくても済むのである。
俳句にはこういうハンディーがあるから、新聞俳句に無印の句ばかり並んでいても不思議はないのだが、今回、突然異変が発生して印のついた句が登場したのだ。これはもしかすると、新聞社側から俳句欄の選者にそうするように求めたのかも知れない。新聞の一般読者は、印のついた作品だけを読んで、この頁を通り過ぎてしまうからだ。私も、この頁まで来ると俳句欄をとばして短歌欄の印のついた作品だけを読んで次の頁に移っていたのである。
今回、初めて俳句欄で目にしたまさに記念碑的な三句は次のようなものだった。
毛糸編む愛の賛歌をききながら
弱虫に高校入試近づけり
山寺に嫁ぎ紅葉に囲まるる
最後の句がよかった。この句には作者の静かな境涯が詠い込まれている。この句に接すると、華やぎと寂寥とが同居した環境の中で、ひっそりと老いて行く女性の一生がまざまざと感じ取れるのだ。
俳句というものは、不思議なものである。事柄は、「山寺に嫁いで来たら、寺は雑木に囲まれていた」というだけのことに過ぎない。それを17字に縮めて詠むと人の世の淋しさというような詩的なイメージが静かに浮かんでくるのである。