<水上勉の闇夜(1)>
何気なしに書棚に目をやったら、「わが六道の闇夜」と題する水上勉の本があった。自分がこんな本を持っているとは思いもよらなかった。多分、これは題名に惹かれて購入したが、その後読むこともなく放っておかれたものなのである。私の本棚には、買ったきりで手つかずのまま眠っている本が、まだいくつもあるのだ。
水上勉は一時期、松本清張を追うと見られていたベストセラー作家だったから、私も「飢餓海峡」を購入してみたが、少し読んだだけで投げ出してしまった。水上勉は、私にとって谷崎潤一郎と同じように食わず嫌いの作家だったのである。
問題は、彼の文体にあるのだった。どこか島崎藤村を思わせる質実で暗い彼の文章に抵抗があったのである。だから、これまでに私の読んだ水上勉の著書といえば、「宇野浩二伝」しかなかったのだ。
しかし、文壇における水上勉の評価は意外に高いらしく、「文学の神様」といわれた小林秀雄も彼を愛し、よく作家仲間の宴席などに彼を呼んでいたといわれる。水上は小林秀雄に認められたことに自信を持ち、小林の一番弟子みたいな顔をするようになった。それで、古くからの小林の弟子たちに憎まれ、一夜、彼らから呼び出され吊し上げを食ったことがあるそうである。
何はともあれ、「わが六道の闇夜」を取り出して読んでみる。
読み終わって、なぜ彼の評価が高いのか理解できたような気がした。彼は、実に正直に自らの過去を語っているのである。彼の露悪的なばかりに赤裸な語り口は、車谷長吉の自伝に似ている。
<若狭の父は大工であり、母は農婦であった。ともに貧しい家のうまれ、とりわけ父は盲目の母に生まれ、そこへ十六歳の母が嫁入りしてきて、私ら五人の子をうみ、私はその二ばん目で、盲目の祖母に負われて育った。・・・・その私は、九歳で仏門に入ったが、そのころから、わけのわからぬ禅宗の語録を教えこまれ、修行も強いられ、いくらかつとめはしたものの出来あがらず、十九歳で寺を脱走したのである。
そのような間に、私はいろいろの浅知恵を育てて、我を張って生きた。五十四歳になっても、その我を捨てきれないでいるということになる。その私の浅知恵を禅師(注:道元禅師)はしかりつける(「わが六道の闇夜」)>
こうした過去を、水上勉独特の文章で語り継いで行くのが、自伝「わが六道の闇夜」なのである。仏門に入った彼が、久しぶりに京都から若狭の実家に帰ってみると、末の妹が生まれていた。この再会の場面を彼はこんなふうに書くのだ。
<志津子という末女もうまれて、母の乳房にしがみついていた>
生まれてきた妹が「母に抱かれて乳を飲んでいた」と書く代わりに、彼は「母の乳房にしがみついていた」と書く。これが水上勉の文体なのであり、彼はこうした情け容赦のない文章術で赤貧洗うがごとき生家の一部始終を描き出していくのである。
<土間といわず、板の間といわず、年じゅうボロがつるされていて、洗濯のゆきとどかない私たちのシャツや寝巻き、父の仕事着、母の下着、野良着など、所かまわずひっかかっていた。
タンスとか長持ちとかもなく押し入れも無かったせいだろう。なぜ、あれほどわが家がちらかって、汗くさく、カビくさかったのか、戸口のすぐ軒下にはだか桶を一つ置いたのが便所だったせいもあろうか。とにかくそこらじゆうがきたなくてくさかった>
水上の生家には電灯料が払えなかったために電気が来ていなかった。風呂もなかった。だが、この辺までは、よくある貧乏話で「六道の闇夜」というには当たらない。
<私のあとに、三ばんめの子がうまれて、私とは年子だった。弘と名がつけられた。私は、まだ、二歳になったばかりだし、したに出来た赤ん坊の記憶はあまりないが、その弘が三か月はどして死んだ。小さなミカン箱のような棺を父がつくって、坊さんも、親戚も呼ばずに・風呂敷につつんで、さんまい谷へ埋めに行った>
後に物心がついてから、彼は母にこう教えられる。
「お前が乳をやらなんださかいに、弘は死んだ」
母が言うには、勉が乳房を独占して弟を寄せ付けなかったから、弘は死んだというのである。
このへんから、徐々に水上の心が闇に閉ざされ始めるのである。彼は三つ四つになった頃から、道ばたで女郎蜘蛛を見つけるとこれを捕まえてきて、家で飼うようになった。
<これに蝶、トンボ、蝉、羽虫などを箒でたたき落として、わが女郎蜘妹の巣へひっかけてやる。蜘妹は、獲物がひっかかると、最初は前肢を高くあげて警戒し、ひっかかった獲物とおのが本陣との最短距離の糸をひっばってみて、獲物に手ごたえがありそうだと、すぐそっちへ跳びかかって噛み殺してしまう。
このありさまを、下から眼をひからして観察している。快感ももちろんあって、・・・・>
こうした殺生への欲求は次第に肥大していって、女郎蜘蛛以外の蜘蛛を見ると必ず殺すようになり、やがて虫でも鳥でも蛇でも何でも殺すようになる。彼はそれらに石を投げつけて殺す名人になった。
殺生欲に計算が加わると、雀、ツグミ、百舌、鳩、雉を殺しては食ってしまうという行動になる。収穫の多い日は、鳩・雉・ツグミなどを十羽近く家に持ち帰り、母に渡して食べられるようにしてもらう。
その日も彼は十羽ほどの鳥を縄でくくって帰ってくると、近所の万吉という老爺が、「勉よ、殺生なことはやめなあかんで」と声をかけた。「鳥はなァ、木の果(み)イを食うて、そこらじゆうにタネをまいて……山に木イを生やしてくれる神さんや。お前のように、そないに殺して食うとったら、山ははげ山になるがいな」
水上勉は、それを聞いてハッとした。
<私は足をとめ、万吉の爺イがいうことばに息をのんだ。一瞬、わが家の炉端をにぎやかにしようと喜び勇んで、縄にくくりつけていた、鳩、キジ、うずらの、うらめしそうに白眼をむいてこと切れている姿が、千万の呪いの声をあげて襲った>
水上は、こんな少年時代を過ごした後に京都の相国寺塔頭瑞春院の小僧になる。彼はまだ9歳の子供だったから、近くの小学校に通わなければならなかった。そんな水上を院の和尚は容赦なくこき使う。和尚の若い妻は、赤ん坊を産んだばかりだった。
朝五時に起床、掃除、食事の用意、赤ん坊のおむつ洗い、それから登校、授業を終えて走り帰ると、赤ん坊を背中におんぶして、庭の草取りといった生活である。彼はこういう生活に強い不満を感じたが、それをはっきり口にするような性格ではなかった。水上は、芋虫のように押し黙って、一日中しくしく泣いているだけだった。
小学校を卒業した水上は紫野中学校に進む。この頃の彼について、同級生は次のように語っている。
「中学一、二年ころの彼は、ひどく老けていた。背中がまがり、顔は青黒くて陰気で、しょっちゅう泣いてばかりいた。手もしもやけがひどく、風呂もはいらないものだから、首すじや手首に垢がたまってくさかった」
耐えきれなくなった彼は、ついに瑞春院を脱走する・・・・
(つづく)