<水上勉の闇夜(2)>
瑞春院を脱走した水上勉は、京都で下駄屋を営んでいる伯父の家に転がりこんだが、関係者の手で連れ戻されて今度は相国寺塔頭の玉竜庵に移ることになる。そして更に、衣笠山等持院に移籍するのだ。移籍した二つの寺の和尚は、いずれも70歳を越えていた。にもかかわらず、彼らは年若い内妻を寺内に囲っていて、おおっぴらに老年の性愛を楽しんでいた。内妻らは出戻りだったり、金で買われて来たりで、不幸な身の上の女たちだった。
水上勉にとって、等持院の生活も明るいものではなかった。
寺内には彼よりも年長の兄弟子が寝起きしていて、後輩の弟子たちに鉄拳制裁を加えるだけでなく、夜ともなれば彼らに「夜伽」をさせていた。水上も二人の兄弟子から交互に呼びつけられ、彼らに奉仕するように命じられた。布団の中で彼らの性器を手で刺激してやるのである。
将来、僧職に就く生徒を集めた花園中学でも、性に関する奇妙な掟があった。中学5年生にもなると、「女郎買い」をして童貞を捨ててこなければ、ストーブに当たらせてもらえないという掟なのだ。
水上は、等持院の拝観料をくすねて資金を作り、五番町の色街に出かけ、初めて女を買っている。二階で彼の相手をした妓はげらげら笑いながら事を終え、終わるとすぐに階下に降りていった。後から彼が階下の帳場を通ると、さっきの妓が三、四人の仲間に水上の話をして大笑いをしていた。
翌日、学校に行って初体験の話をしたが、誰も信じてくれない。クラスのボスに、「どんなふうにやったかいうてみい」と詰問されたので、妓たちに笑われたことを打ち明けると、それに実感があったらしく、「よおし、ストーブにあたってよし」と許可が出た。
水上勉はこうした体験談を語った後で、次のように記すのである。
<このような情事の出発は、それから長いあいだ私をひきまわすところの半熟卵のような、煮えきらぬ、大人だか、子供だかどっちともつかぬ、奇妙な性格をつくりあげてゆくことになる>
昭和11年に花園中学を卒業した水上は、その二ヶ月後に等持院を飛び出して還俗している。彼はすでに得度して僧籍に入っていたが、中学卒業を機に思い切って俗人に戻ったのである。
「わが六道の闇夜」を読んでみると、彼が還俗したのは僧門に絶望したためではなかった。徴兵検査を受けて戦場に出ることになれば、俗世の生活を知ることなしに戦死することになると考えたからだった。まだ小学校も終えないうちに寺院に入り、小僧としてこき使われてきた彼は、徴兵検査の前に一度は世の中に出て自由な暮らしをしてみたかったのだ。
寺を出て下駄屋の伯父宅に移った水上勉は、新聞配達・牛乳配達、あるいは「むぎわら膏薬」の行商をしながら、立命館大学文科の夜間部に入学している。だが、大学生の生活には直ぐに飽きが来たので、立命館を退学して京都府庁職業課の雇員になった。
水上勉の生活が急速に乱れたのは、伯父の家を出て染め物屋の二階に下宿するようになってからだった。この染物屋の二階に、立命館大学で知り合った足利禅慈という友人が押しかけてきて同居するようになったのだ。だが、足利という男は無類の女好きで酒飲みでもあったから、水上はたちまちこれに感化されて、府庁からもらう給料の全部を遊興に使い果たすようになってしまった。
ある日、府庁の職業課に国際運輸という会社から求人斡旋の依頼が来た。この会社は中国の大連に本社があったから、ここに就職すれば徴兵検査を逃れられるかもしれない、そう考えた水上は、府庁を辞めてこの会社に転職することに決める。そして満州に渡ったが、二ヶ月後には結核になって喀血するのである。
水上の語るところによれば、彼は入院した病院で看護婦の前もはばからず、子供のように泣いていたという。これを見た会社の厚生課は、厄介払いのため彼に内地療養を命じた。
帰国して療養に努め、体調が回復したので、彼は先輩の世話で「日本農林新聞」に就職して東京のアパートで暮らしを始める。この時、水上はまだ21歳だったが、「わが六道の闇夜」の記述は、このあたりから一段と精彩を増してくるのである。ほかの作家があえて触れようとしない著者自身の性格上の暗部を、彼はあからさまに記し始めるのだ。
<私にはむかしから、女に対する独特な、というと変なようだが、ある触角があって、どれと思えばこっちから、その女を誘い入れるようなテクニックが、そなわっていた。憎むべき性質だが、どういうわけか等持院にいたころからそうだった。中学時代に五番町通いをしたと書いておいたが、立命館に入ってからも・・・・・千本、堀川あたりの呑み屋、五番町にたえず行ったので、女あそびのコツのようなものを、私は私なりに勉強していたというより、こすっからく身につけていた>
何時となく彼は、「女を引っかける」コツを身につけていたというのである。それが何であるかといえば、男が女に見せる媚態だったのである。
<いまでも、この当時の写真をみていると、どことなく、身なりのみすぼらしさからいじけた感じはするものの、女だったら、ちょっと肩に手をおいてやりたいような、いやらしいポーズをつくって撮っている。
この顔は、何も写真をとってもらう時にかぎった顔ではない。道を歩いていても美人に会えばかならずそんな表情になった。通りがかりの女にでも眼にとめてもらいたい、なろうことなら印象をふかめておきたい、といった気がむらむらと起きて、そいつを巧妙に出してみせるのである。
いったい、どんなふうに、そのポーズをとるかときかれれば、いまでも、やってみることが出来る。かなしい性である。文章では書きにくいのだが、これは具眼の士が見たら、鼻もちならない、くさった男の仕草である。
しかし、くさったような仕草をしてまでも、女に媚びを売って、なるべく、安あがりに近づきたい。こんな性格だからして、近づいてくる女性は、まあ、たかが知れた相手だ>
彼はこういうやり方で、次々に女をものにして行く。最初の獲物は同じアパートに住んでいる女性だった。
<二十二歳で、女の肌に飢えている私は、階下のこの女性をひと眼みるなり、興味をもち、例の憎むべきテクニックで近づいた。T女は人の好い、農家出身の、いかにも素朴な感じがしたが、なかなかしっかり者だった>
この女性と同棲するようになり、やがて相手が妊娠すると、水上は子供を堕してくれる医者をあたふた捜すことになる。時代は太平洋戦争を間近に控えた昭和16年であった。堕胎したことが見つかれば、罪に問われる戦時下だった。ようやく、うんと言ってくれそうな町医者を探し当てることが出来た。
<六十近い老医がわけ知り顔な眼を微笑させ、許諾してくれた。灯火管制の夜だった。T女がベッドに寝た瞬間に、警戒警報がなった。老医は、私を手術室に入れ、ろうそくをもっておれ、といった。私は言われるとおりにした。看護婦さんのいない医院であった。ろうそくのうすあかりの下で、T女の躯からゆらめき出てくる小さな血のかたまりをみて絶句した>
堕胎させた女の、その堕胎場面を自伝に書きこむような作家を私は見たことがない。
彼は一年半後にこのT女と別れて勤め先も変えたが、彼自らが語るように「女なしで暮らせるはずのない」水上は、新しい勤務先で働いているM女を見初めて結婚する。年譜によると、この女性は加瀬益子と言い、二人の間に生まれた子供が無言館長の窪島誠一郎だった。
水上勉は間もなく、このM女とも別れ、松守敏子と再婚する。そして、この松守敏子とも別れて、西方叡子と結婚するのだ。
水上勉は、どうしてこんなにも自虐的な自伝を書いたのだろうか。六道をさまよう哀れな人間の心の闇路を描くためだったのである。「わが六道の闇夜」には、女地獄をはいずり回った一休宗純の名前がしきりに出てくる。一休もまた、心の闇路をさまよった痴愚の男だった。彼は仏教者として、人間の痴愚と、それが織りなす人の世の光景を描こうとしたのである。
この本を読み終わった後で、インターネット古書店から「水上勉全集」を購入したら、新本同様の26冊の本が一万円だった。一冊あたり400円たらずの安さである。往年のベストセラー作家も、忘れられつつあるのだろうか。