(水上勉 軽井沢の別荘で)
<大逆事件と古河力作(3)>
古河力作について先ず指摘しておかなければならないのは、彼が人並みはずれた小男だったということだ。成人してからも身長四尺四寸(1,33メートル)だったというから、高等小学校を卒業するまで級友から「一寸法師」と呼ばれていたのも無理からぬことだった。彼が満20歳になって徴兵検査に出頭したら、係官が、「ここは、子供の来るところではない」と言って追い返そうとしたというような話も残っている。童顔で丸顔だった力作は、20になってもまだ子供のように見えたのである。
力作の弟の三樹松も妹のつなも体が小さかった。原因は近親結婚がつづいたからではないかといわれている。古河本家は昔から廻船問屋を営み、若狭では有数の資産家だったが、こうした資産家の通弊として一族間で縁組みを繰り返して来たのである。古河分家の当主だった力作の父も、従姉妹と結婚している。
大逆事件被告側の弁護士だった今村力三郎は、古河力作を弁護するに当たってこの辺を利用しようとしたらしく、その弁護メモには、次のような文字が並んでいる。
<力作ノ父母ハ従兄妹ノ結婚。力作ノ叔母古河チヨ白痴、七、八年前死、力作ノ曾祖父三島孫右衛門ノ妹アサ白痴、力作ノ曾祖父孫右衛門白痴、孫右衛門ノ祖母ヤス白痴、力作ノ祖母古河サクノ弟古河敦成狂、力作ノ祖母古河サクノ叔父古河嘉六狂、力作ノ父慎一ノ従弟河成一(教成ノ長男)ハ現存スルモ頗陰鬱>
古河力作の家は、屋敷のほかに持ち家が一軒あり、田畑20町歩を所有する地主だったから、周囲から一目置かれていた。だが、父が北海道に出かけて一旗揚げようとして失敗したため、力作も小学校卒業後進学できず、神戸の草花栽培業者のところに就職しなければならなかった。
こうしてみてくると、力作が屈折した性格を持つようになった理由も分かるのである。名門の一族に生まれ幼児期は大事にされてきたけれども、父の失敗で一家が零落してからは周囲の目は冷たくなり、力作に対しても露骨にあざけりの表情を示すようになったのである。
古河力作は胸に怨念を隠したまま、神戸におもむき、勤務先ではせっせと働いた。そして勤め先が倒産すると、東京の草花業者の家に住み込んで働くようになったが、ここでも雇い主の印東家の人々に信頼され、顧客からは愛されている。
この頃の彼自身について、力作は「自分は一緒に働いている女中の名前を呼ぶのさえきまりわるがったし、花畑にやってくる来園者が花をいじるのを見ても注意できないほど臆病だった」と語っている。その彼が社会主義の理論に触れて、人が変わったようになるのだ。
無料新聞閲覧所を開いていた社会主義者川田倉吉のところに、古河力作が飛び込んできたことがあった。聞けば、力作は時の首相桂太郎を刺殺するために官邸に踏み込もうとしたが、巡査に怪しまれて実行できなかったというのだ。半信半疑でいる川田に力作は懐から短刀を出して見せた。
「これで刺してやろうと思ったんです」
力作が桂首相の暗殺を企てたという話は、ぱっと社会主義者の間に広まり、幸徳秋水も噂を耳にして力作を見直すようになった。
力作のこうした変化を、雇い主の息子印東玄一は次のように語っている。玄一が小学生だった頃、雨が降り出すと力作が傘を持って学校に来てくれた。すると、玄一の仲間たちは、「やあ、コビトが来た」とはやし立てたというのである。
「なにしろ世間からは、まあそんなふうな眼でみられていますからね、力さんは、外へ出ることをあまり好まないようでした。あとになると、つまり、主義者になってからは、そうした劣等感も無くなって、どんどん日分を主張し、外歩きもしたようですが」
社会主義の理論に触れて古河力作が劣等感を克服し、大きなことを言ったり書いたりするようになったのは事実だった。だが、彼は自分が依然として気の小さな臆病者であることを知っていた。彼は、「体の小さな人間は大きなことをいいたがるものだ」という通説を肯定している。
古河力作は裁判で死刑宣告を受けた時、「自分は精々不敬罪になるくらいだと思っていた」と驚いている。彼は獄中で「余と本陰謀との関係」という手記を書いて、そのなかで計画への参加を求められたときの心境をこう語るのだ。
<日頃大言の手前卑怯と笑はれんも嫌なり、且つ面と向って余り人に反対する能は
ざる僕は、脱せんと思へぼ何時でも脱し得らるる事なれば、兎も角賛同したり>
ここまでは、いいのである。人間はみな、こうした弱さを持っているのだから。だが、これに続く記述となると、素直に受け取ることの出来ないものがあるのだ。ひがみと猜疑心の混在する暗澹たる彼の内面を垣間見るような気がしてくるのである。
<然し僕は、幸徳にしろ管野にしろ新村にしろ、果して実行の人であるか否やを平素より疑って居たから、本陰謀の如き彼等自ら手を下すに非ずして、僕と宮下とで決行せしめるのではないかと思つたから、然らば彼等は如何して脱するだらうかと考えて見た。これ多分抽籤によるか、又は僕が彼の人々の実行を止め僕之に代らんと申出るのを待て、其の言に従ふのではないかと思った>
幸徳・菅野・新村の三人は、自らは手を汚す気のないくせに、自分と宮下に計画を実行させようと思っていると、力作は邪推するのである。菅野が「自由思想」の発行人として入獄することになったとき、力作は自分が身代わりに出頭してもいいと提案したことがあった。力作は、あれを彼らは覚えていて、抽籤で自分たちが籤を引いてしまっても、きっと義侠心に富み度胸もある古河力作が代わってくれるだろうと当てにしているのだと邪推する。
この手記には、力作の邪推に基づく記述が延々とつづいている。彼は菅野と新村が自分と宮下に実行させたがっているなら、こちらからそのことを言い出してみたらどうだろうと考える。そして、「どーです、僕と宮下で実行して、君らは残ることにしませんか」と探りを入れると、菅野・新村は、「それは駄目だ、みんな自分がやりたいと思っているのだから」と反対する。
この問答で菅野・新村にかけていた疑いは晴れた筈なのに、力作はこう書くのである。
<さもありなん。(ここは)そー言わなくてはならないところだと密かに僕は可笑しく思った>
力作は、クジ引きの結果についても、推測を逞しくする。そして、ああだ、こうだと想像した末に、宮下を四番手にしたのは、僕一人にやらせるつもりだったからだろうと判断する、そしたら、彼の抱いていたすべての疑団が氷解したのだ。
<兎も角僕にやらさうとして居る事が大抵分ったので、僕もそろそろ抜けようと思った。が、かく迄深く関係し居ながら、今更止めるてな事は明に云はれない。卑怯な奴と嗤われんのも口惜しいので、何か最も自然的に脱る手段ハあるまいか。自分はやりたいのだが、止むを得ない。止めると云ふ様な事にしたい、と種々工夫した末、かう云ふ手紙を新村に出した>
力作が新村に出した手紙は、爆弾投擲の練習をしたいから爆弾の缶を自分に送るよう宮下に頼んでくれというものだった。古河力作は、かけちがってまだ一度も宮下にあったことがなかったのだ。
力作は缶が届いたら、「実験したが、自分にはうまく投げられないから、残念ながら止す」といって体よく断るつもりだった。だが、力作のもとに爆弾のケースが届くことはついになかった。宮下は密告されてすでに逮捕されていたのである。
(つづく)