甘口辛口

宝を天に積め

2009/2/10(火) 午後 4:54

 (NHK日曜美術館より 「巨岩」ワイエス)

<宝を天に積め>


同じ高校に勤めていた先輩教師に、熱心なクリスチャンで、生涯独身で通した女教師がいた。彼女の信条は、「宝を天に積め」というものだった。これは聖書の中の言葉で、誰にも知られることなく善行を積めという意味らしかった。

東洋の先人たちは、同じようなことを語るときにも、あまり大げさなことは言わない。これに関連して先ず思い浮かぶのは、老子のことだ。

老子は、「われに三宝あり」といって、謙と倹と慈をあげる。「謙」は、人の上に立つことをしないで下座にとどまることであり、「倹」は貪らないで倹約をすることを意味する。偉くなろうと思わず、今あるものに満足して貪らないでいれば、自然に余裕が生まれる。その余裕と余力は他者に振り向けられて、「慈」になるというのだ。つまり、「慈」や善行は自然的な行為として、当然行為として、実現されるというのである。

老子は、決して無理なことを要求しない。自分を犠牲にして民衆に奉仕せよとか、持っているものをすべて捨てて無所有になれとか、「道徳的ヒロイズム」に類するようなことは、一切口にしない。人間を迷わせるのは権力欲と物欲だから、それらをセーブし、自らを凡愚の座に置いておけば、自然に余力を生じ他者に善を施す余裕も出来るというのである。

善をなすといっても、アフリカに行って飢えた子供たちを救うというような破天荒なことをする必要はない。道に落ちているゴミを拾うのも善だし、自分の持ち物を大事にするのも善行である。散歩しながら、(ああ、いい景色だな)と思うのも、自然への愛になる。誰にでも出来て、われわれが日頃無意識のうちに実行していること、それが善であり慈愛なのである。

二宮尊徳は、老子よりも更に分かりやすい例をひいて説明する。植物が自らを養うだけでなく、最後に種子を残すように、人間も自身のためだけに生きるのではなく、世のために何かを残さなければならないというのだ。どんな人間も、欲をかかず、普通に生きていれば、自然に余力を生じて善をなすようになると二宮尊徳も考えていた。

さて、アナーキストの人間認識は、老子や尊徳と同じなのである。体制護持派が人類は競争によって進化すると主張するのに対して、アナーキストは競争ではなく相互扶助によって進化すると考える。一部のアナーキストは、ゼネラルストライキによって旧体制を転覆出来るという楽観論から出発して失敗したが、アナーキズムの根本にあるのは人間性への信頼であり、その基本戦略は民衆を教化し啓蒙して旧体制を自壊させることなのである。

人間は平等の権利を持って生まれてくる。そして、賢愚美醜の差はあっても、すべての人間がヒューマンな感覚と理性的な思慮を持っている。この点を民衆が自覚するようになれば、帝政は消滅し、権威崇拝の習性も根絶される。そして愛国主義は完全否定されて、世界政府が誕生する。

だが、一挙にそこまで行くのではない。最初は近隣の住民同士による自然発生的な相互扶助から出発し、次に地域間での自由連合に発展する。そして、最後に国家間の連合組織へと進むのである。

ただし、これには非常に長い時間のかかることが予想される。人はそれぞれの国の社会システムに制約され、子供の頃から刷り込まれてきた常識を脱ぎ捨てることが出来ないからだ。

朝のテレビを見ていたら、東京都民は実費だけだと13万7000円で済むところを、一回の葬式のために345万円を支出しているそうである。そのため葬式の費用を工面できない遺族は、遺骸をよその土地に運んで捨てたり、ミイラになるまで押入に隠しておくケースが後を絶たないという。こういう話を聞くと、古河力作が「非墳墓主義」の立場から、自分のための葬式はしないで、その金でおいしいものでも食べてくれと父に遺言した理由も理解されてくるのだ。

アナーキストがテロやゼネラルストライキによらずに理想社会を実現しようと思ったら、数百年どころか千年オーダーの時間を待たなければならないかもしれない。だが、人間性に信頼しているアナーキストは、千年であろうと万年であろうと、待ち続けることが出来るはずである。

アナーキストの善行とは、日々を人間平等論に立って行動することだ。権威に頭をさげないことである。

キリスト教徒は、「宝を天に積め」といって善行を積んだが、アナーキストにとっての天は、神の住まう天国ではなく、平等な市民の住む未来社会なのである。