(パール・バック)
知的障害児の母として(2)
知的障害の子供を持った母親が、名医を求めて果てしない旅を続ける話を以前にも読んだことがある。その母親が病院を立ち去ろうとしたら、病院関係者らしい見知らぬ女性が、「こんな事をいつまで続けるつもりですか。ご自分の人生を台無しにしてはいけませんよ」と耳元に囁いて去っていったというのである。
これは恐らくパール・バックの「母よ嘆くなかれ」から換骨奪胎したエピソードなのかもしれない。回復の見込みのない家族の世話をして一生を終える者がいたとしたら、それは水に溺れているものを救おうとして相手に抱きつかれ、一緒に溺死する救助者のようなものではなかろうか。人間には、自分の一生を思い、どこかで決断を下さなければならない時があるのである。
パール・バックは、「障害者を抱えている親には、克服しなければならない問題が二つある」という。一つは、自分が死んでからも、子供が生きて行ける道を講じておいてやらなければならないことであり、もう一つは、「そのような子供を持った悲しみにどうやって耐えて行くか」という問題に取り組むことだという。
癒すことの出来ない悲しみにとりつかれると、以前に喜びを与えてくれた風景とか花とか音楽がすべて空虚に感じられ始める。娘が障害を持っていると知ってからは、パール・バックは音楽を聴くことも出来なくなった。
彼女は普段通りに暮らし、来客にも会い、自分の義務を果たしていた。だが、客が帰ると彼女の全身を悲しみが包み、彼女は泣くしかなかった。すると、娘は泣いている母親をじっと見つめ、それから笑いだすのだった。
「私が、世の中の人々を、避けることの出来ない悲しみを知っている人と知らない人たちとの二種類に分けることを知ったのは、この頃のことでした。悲しみには和らげることの出来る悲しみと、和らげることの出来ない悲しみしみという根本的に違った二つの種類があるからです」
人の前では平静を装うことをしているうちに、彼女は他者と「誠の交わり」を経験することが出来なくなった。友人たちは彼女の表面的な明るさについて行けないものを感じるようになったのだ。友人たちは、パール・バックのなかに何か浅薄なものを感じ取っただけでなく、彼女に人間としての冷たを感じ、それに反発するようになったのである。
そんなパール・バックが蘇生したのは、あるがままの事実を受容するようになったからだった。この悲しみは死ぬまで自分から離れることはないし、また、誰も自分を助けることが出来ない──そう悟った瞬間に、彼女はこれが自分の運命なのだ、自分はそれを生きて行くしかないと覚悟したのだった。
彼女が悲しみとともに生きて行くことを覚悟したときに、悲哀克服の第二段階が始まった。彼女は、悲しさのなかにあっても、楽しみを求めることは可能であり、積極的に楽しみを求めるべきだと考えるようになったのである。
すると、娘が軽蔑されたり、いやがられたりしない施設で、彼女と同じレベルの仲間と暮らすようにしてやらなければという積極的な気持ちが湧いてきた。パール・バックは自分の悲しみの中に浸っていることをやめ、娘のことを第一に考えるようになったのだ。
彼女は、率直に書いている。
<私が自分を中心にものごとを考えたり、したりしているかぎり人生は私にとって耐えられないものでありました。そして、私がその中心をほんの少しでも自分自身から外せることが出来るようになった時、悲しみはたとえ容易に耐えられるものではないにしても、耐えられる可能性のあるものだということを理解出来るようになったのでありました>
パール・バックは、それまで娘が世の中に出ても苦労しないようにと、少しずつ文字を教えていた。やがて娘は易しい文章なら読めるようになり、努力すれば自分の名前を書けるようになった。
パール・バックが娘に文字を書く練習をさせているときだった。
<私は偶然、娘の手をとって字を書かせようと、私の手を彼女の手にかさねたことがありました。彼女の手は、なんと汗でびっしょりぬれていたのです。私はその両手を取って、それを開いて見ました。両手ともびっしょりとぬれていたではありませんか。その時、私は、子供が自分自身では何もわからないことに一生懸命になって、私を喜ばせようとする天使のような気持から、ただ母親のために非常に緊張しながら字を書くことを覚えようとしていたことを知ったのです>
この可憐な魂に無理をさせてはならないと、パール・バックは考えた。、娘に出来もしないことをさせて一体何の益があるだろうか。娘も一人の人間であり、幸福になる権利を持っている。娘にとっての幸福とは、与えられた能力のままで生活するということなのだ。
パール・バックの娘が一番好きなのは音楽を聴くことだった。彼女は流行の歌を嫌い、クラシック音楽なら何時間でもレコードに聴き入っていた。交響曲を聴いていると、彼女の口元に微笑が浮かび、その目は遙か彼方を見つめて恍惚の世界に入っていた。
娘は、大好きなクラシックを聴きながら生きて行けばいいのである。パール・バックは、あるがままの娘をそのまま受け入れ、それ以上期待しないことを心に誓った。
(わが国のノーベル文学賞作家大江健三郎にも、知的障害を持つ息子がいて、彼もまた音楽に非凡な才能を示している)
パール・バックは娘が9歳になったときに、彼女自身が慎重に選んだ施設に娘を入れている。この時、娘は小さな腕を母親の首に回して離れようとしなかった。パール・バックはそういう娘を引き剥がし、後を振り向きもせずに帰途についた。
彼女は施設の保母が娘をしっかり抱き留めていてくれることを感じながら、(振り返ってはならない、振り返ってはならない)と自分に言い聞かせて施設を出て行った。
パール・バックは、「あれから何年もたち、今では定期的に家に帰ってくる娘は一週間もすると施設に帰りたがるようになった」と書いている。
パール・バックの長い戦いは終わったのである。彼女はこの体験記を、次のような文章で終わりにしている。
<私たちは喜びからと同じようにまた悲しみからも、健康からと同じようにまた病気からも、長所からと同じようにまた短所からも・・・・・おそらくはその方がより多くのことを学び得られるのです。人の魂は十分に満たされた状態から最高度の域に達することは滅多になく、逆に奪われれば奪われるほど伸びて行くものです。もちろんこれは、幸福より悲しみが、健康より病気が、そして富裕より貧困がよいというのではありません>
──「母よ嘆くなかれ」を読んで不満を感じるのは、叙述の中に具体的な地名や人名などが省略されていることだ。彼女は何故中国で暮らしていたのか、夫は何の職業で、どんな人物なのか、娘の名前はなんというのか、それら一切が記されていない。そのため、ある種のもどかしさが残るのである。
私は、日本人女性では神谷美恵子に興味があって少し調べてみたことがあるが、アメリカ人女性に興味を持ったことはなかった。しかし、パール・バックについてはもう少し知りたいと思っている。