甘口辛口

知的障害児の母として(1)

2009/2/15(日) 午後 5:08

(晩年のパール・バック)


<知的障害児の母として(その1)>


学生時代にパール・バックの「大地」を面白く読んだことがある。この作品を物語性豊かで厚みのある長編だとは思ったけれども、所詮、大衆小説ではないかと考えて、それ以上パール・バックに関心を持つことはなかった。だから、彼女がノーベル文学賞を取ったことも、「母の肖像」「母よ嘆くなかれ」が、わが国でベストセラーになっていることも長い間知らずにいた。

「大地」を読んでから20数年をへて40代になったある日、行きつけの古本屋で
「母よ嘆くなかれ」という本を見つけた。裏表紙に鉛筆で書き入れた値段を見ると、100円という安さだった。それで、何となく買ってきて読んだのである。

本そのものが薄かったし、内容もやさしく書かれていたから、またたく間に読み終えた。読み終えてから、これはベストセラーより、ロングセラーになるような本ではないかと思って奥付を見ると、こうなっていた。

  昭和25年 初版発行
  昭和39年 24版発行

確かに、これは長く読み継がれるに値する本だった。読者を静かに考えこませる本なのである。

「母よ嘆くなかれ」は、こんな具合に書き出されている。

「私は、この物語を書こうと決心するまでにはずい分長い間かかりました。これはうそ偽りのない本当にあったことなのです。そして、そのためにこれは話しにくいことなのであります。今朝、およそ一時間ほど冬枯れの森な散歩して帰ったあとで、私は、とうとうこの話を書くべき時が来たと決心しました・・・・・」

パール・バックが書くことをためらっていたのは、彼女が知的障害児の母だったからだ。

パール・バックにとっては、自分が知的障害者の母になるなど、およそありえないことだったのである。父方の家系には言語学や文学の部門で業績を上げた有名人がいたし、母方の家系も高い教養を持ったものばかりだったのだ。

「私の家族はみんな馬鹿げたことや、ぐずぐずしたことを黙って見ていられない性質でした。しかも私は、自分たちより鈍感な人に対して我慢出来ないという、私の家族の癖をすっかり身につけておりました。そこへ自分でもわけのわからない欠陥をもって生れた娘を授けられたのです。

このような子供を授けられるということは、本当に残酷で不正であるとさえ私には思えたことがありました」

自らの家系に誇りを持っていた彼女は、最初、我が子の障害をなかなか認めようとしなかった。娘はパール・バックが若さの絶頂にあるときに中国で生まれ、見るからに利発そうな赤ん坊だったからである。顔かたちがハッキリして、珍しいほど美しくもあった。生後一ヶ月の赤ん坊をバスケットに入れて船のサンデッキにいたら、デッキを散歩していた乗客たちは立ち止まって皆ほめてくれた。

「綺麗な子だな。こんな綺麗な子はめったにいない」
「あの深みのある青い目をごらんよ。本当に利口そうだわ」

パール・バックは、娘が3歳になっても話すことの出来ないことや、娘の注意力がほんの一瞬しか続かないこと、身軽に歩き回る動作に目的がないこと、青く澄んだ目の深みにうつろな影のあることなどを見て、ようやく一抹の不安を感じ始め、そして娘が四歳になってから、ついに子供が知的障害児であることを認めざるを得なくなったのである。

娘に障害のあることが判明してから、こういう子供を持った親だけが知っている終わりのない悲しい旅がはじまった。パール・バックはアメリカに戻り、どこかに自分の子供を治してくれる人がいるに違いないと探し始めた。持てる時間と金のすべてをささげて、アメリカだけでなく世界中を歩き回る旅をはじめたのである。

彼女は娘を連れて各地の病院をめぐり、評判のいい個人医があればその門を叩いた。効果のある治療をしてくれた医者は一人もいなかったが、医師たちは最後に言い合わせたように、「望みがないわけではないですよ」と慰めてくれる。それでパール・バックは勇気を出して、改めて娘を連れて次の病院に向かうのだった。

パール・バック母子の終わりなき旅は、ミネソタ州のメイヨー・クリニック病院で終止符が打たれた。この病院で娘は多種多様の検査を受け、最後に小児科長の部屋で診断結果を知らされた。

日はすでに暮れ、院内の関係者はほとんど引き上げ、巨大な建物は静かで虚ろな感じがした。小さな娘は疲れ切ってパール・バックに頭をもたせかけながら、静かに泣き始めていた。

「何故でしょうか」とパール・バックは、これまで数え切れないほどしてきた質問を小児科長に投げかけた。

「わかりません」

「望みはないでしょうか」

「いえ、あきらめずに色々やってみるつもりです」

母子は小児科長の部屋を出て、ガランとしたホールの方へ歩いていった。ある部屋を通り過ぎようとしたとき、室内から出てきた見覚えのある小児科医に呼び止められた。相手は、目立たない感じの、言葉のアクセントから見てドイツ人の医師だった。

医師は尋ねた。「科長は何といいましたか」

「あの方は、駄目だとはおっしゃいませんでした」

すると相手は強い口調でいった。

「奥さんに申し上げますが、お子さんは決して正常にはなりません。ご自身を欺くことはおやめなさい。貴女が真理を受け入れなければ、貴女は生命をすりへらし、家族は乞食になるばかりです。

お子さんは決してよくならないでしょう。お子さんは、よくても4才程度以上には成長しないでしょぅ。

奥さん、準備をなさい。お子さんが幸福に暮せるところをお探しなさい。そして其処にお子さん置いて、貴女はご自分の生活をなさい。私は貴女のために本当のことを申し上げているのです」

名も知れぬドイツ人医師の言葉は、パール・バックの全身を刺し貫き、まるで手術で患部を切開するようだった。彼女は悪夢から覚めたような気がした。医師の手際は鮮やかで、しかも迅速だった。

パール・バックは娘を連れて中国に帰り、次にアメリカに戻ったときには、病院巡りを打ち切って、娘を入所させる施設探しに取りかかるのである。障害者を持つ親の心配は、自分が死んだ後、誰が子供の面倒を見てくれるかということだ。子供が生を終えるまで、責任を持って預かってくれる施設を探すのは容易なことではなかったが、彼女は何とかそれに成功している。

パール・バックは、障害児を持った悲しみをどう克服したかについても、率直に書いている。彼女は娘の死を願っていたことまで告白するのである。

<もし、私の子供が死んでくれたらどのくらいいいかわからないと、私は心の中で何べんも叫んだことがありました。

 このような経験のない人たちには、これはおそるべき考えに聞こえるに違いありません。しかし同じ経験を知っている人たちには、おそらくこれは何も衝撃を与えるようなことには響かないと私は思うのです。

私は娘に死が訪れるのを喜んで迎えたでありましょうし、今でもやけりその気持に変りはありません。というのは、もしそうなれば、私の子供は永遠に安全であるからです>

(つづく)