(パールの一家:左端がパール・バック、母に抱かれているのは妹)
<アメリカ女のバイタリティー(その1)>
アメリカ人を見ていて感じることは、彼らが実によく食うことである。鯨飲馬食という言葉があるけれども、彼らは大量のビフテキや肉料理をぺろりと平らげ、ビールやウイスキーを水のようにぐいぐい飲んで、見るからに強靱な肉体を作り上げている。こういう食い方、飲み方を先祖代々続けてきたのだから、彼らの肩幅は広く胸板は厚くなるのも何の不思議もない。
UFCという総合格闘技の団体では、ローマ帝国時代のコロセウムを小型化したような金網でかこんだ舞台装置を作り、この中で世界中から集めてきた男たちに殴る・蹴る・押さえ込む、何でもありの流血の格闘技で競わせている。WOWOWは定期的にこれを中継しているが、たまに出場する日本人選手をアメリカ人選手と比較すると、その体格、体質の差には暗然とせざるを得ないのだ。
これがボクシングだったら、ボクサーの技術がものをいうから日本人でも彼らと対等に闘うことができる。だが、総合格闘技となると、体力勝負が基本で、日本人に勝ち目がなくなる。我々は、ただアメリカ人のバイタリティーに感嘆するしかなくなるのである。
さて、アメリカ人のバイタリティーに感嘆するのは、総合格闘技の男たちに対してばかりではない。アメリカ女の知的格闘力に対しても、嘆声を発しないではいられないのだ。パール・バックやアグネス・スメドレーの伝記を読めば、誰でも既成観念に挑み、これをねじ伏せようとする彼女らのすさまじいばかりのバイタリティーに驚き呆れるのである。
―――パール・バックの最初の戦いは、父親に対するものだった。
彼女の父親は、1880年(明治13年)に中国の杭州に上陸してから、1931年(昭和6年)に南京で亡くなるまで、50年間を中国でキリスト教宣教師として活動している。この父を子供の頃に英雄のように崇拝していたパール・バックは、成長するにつれて父を批判的な目で眺めるようになるのだ。
父のアブサロムには、苦い思い出がある。6、7歳頃、母が隣家の婦人と立ち話しているのを聞いていたら、隣家の女は彼を指さし、こういって母を慰めていたのである。
「あの子はとても醜い子だけれど、どこの家にも出来損ないが一人はいるものよ」
アブサロムは歯を食いしばって考えた。そういえば、母はほかの7人の兄弟ほどには自分を可愛がってくれない。
アブサロムは、自分が魅力のない子で、家族から愛されていないという劣等感を埋めるために、何か人とは違った英雄的な生涯を送らねばならないと考えるようになった。それが、中国に渡って異教徒を救うことだったのである。
彼の意識の底にあるのは、中国人に対する優越感だった。自分はアメリカでは魅力に乏しい人間かもしれない。だが、中国に行けば高級な文明国から来て民衆を救う救世主になれるのだ。
パールの父を含む宣教師たちが、いわれのない優越感をもって中国人に臨むときに、中国人の方でも宣教師への反感から、いろいろなデマを飛ばしていた。宣教師は豚を崇拝しているとか、奴隷を探しに中国へやって来たとか、精力剤にするために中国人の子供の目玉をえぐり出して食べているとか・・・・・。
こんな状態だったから、アブサロムの努力にもかかわらず、成果はほとんどあがらなかった。彼だけではない。当時、中国には千人以上の宣教師が派遣されていたが、彼らが獲得した信者は一万人弱にすぎなかった。宣教師一人あたり、僅かに10人を改宗させただけだったのである。
父に対するパール・バックの批判は、そのいわれのない民族的な優越感に対してだけではなかった。父は聖書の記述を文字通りに解釈し、進化理論に反対してこれを「邪化」理論と呼んでいた。彼はまた、教会が福祉活動に参加することにも強硬に反対していた。父は、旧派キリスト教的信念を片意地に守り、キリスト教の新しい潮流を理解できないでいたのだ。
宣教師仲間の間で孤立しつつあった父は、家族の間でも孤立していた。
母親のケアリーは信仰心が厚く、海外布教を自分の使命と感じて夫と共に中国に渡ったのだが、結核を病んでいて病弱だった。そのために彼女自身マラリアや赤痢にかかり、生まれて来た子供も長男を除いて三人が相次いで死ぬという不幸に見舞われていた。パール・バックは、この夭折した三人の子供の後に生まれた女児だったのである。
理想に燃えて中国にやってきたケアリーも、夫が自分に冷淡なばかりでなく子供の死に対しても感情を動かそうとしないのを見て、次第に夫を憎むようになった。彼女は、子供たちが死んだのは中国のせいであり、そして中国に自分を連れてきた夫のせいだと考えるようになった。そして、その思考はさらに発展してすべての不幸はキリスト教信仰に由来するとまで考えるようになったのだった。
だが、父親のアブサロムは、いい気なものだった。妻のケアリーが苦しんでいるのをよそ目に、妻も自分と同様にこの結婚に満足していると思いこんでいた。パール・バックは、母親の絶望を地中深くに埋め込んだまま、奇妙に静まりかえった家庭で少女期を過ごし一人前の女性になっていった。彼女は次第に、自分よりも聡明な女性を我慢ならないと感じる家父長的な父を憎むようになった。
「パール・バック伝」の著者ピーター・コンは、この頃のパールについてこう書いている。
<夫に対するケアリーの拒絶感は、長くゆっくりと流れる海外の生活で絶え間なく増大し続け、パールの母への同情からくる父への嫌悪感もそれに応じて日増しに強くなっていった>
中国にある女子ミッションスクールを卒業したパール・バックは、アメリカの大学に進学したいと考えるようになった。母との別れを思うと気が重くなったが、息が詰まるような父の影から一刻も速く逃げ出したいという気持ちが強くなったのである。かくてパール・バックは、アメリカのバージニア州にあるランドルフ・メイコン女子大学に入学することになる。
四年間の女子大での生活は順調といってよかった。パールは、二年次にはクラスの会計係、三年次には級長に選ばれ、最後には大学代表という大役を仰せつかっている。そして大学を卒業したとき、心理学の教授から勧められて助手になった。これは学者としての将来を約束されたに等しいものだったが、このとき彼女は父親から帰宅を促す手紙を受け取るのである。母親のケアリーが消化器系の熱病にかかって危険だというのである。
パール・バックは大学での将来を放棄して中国に戻り、以後三年間母の看病をして過ごしている。そして、農業学者の男性と結婚するが、この結婚も知的障害児のキャロルを二人の間に残して破綻するのだ。彼女がノーベル文学賞を受賞するのは、まだ先の話になる。
(つづく)