<「週刊新潮」の失態>
新聞を読んでいたら、「池上彰の新聞ななめ読み」という記事が目にとまった。まるで、学校で教える「短文の書き方」の手本になるような文章だったからだ。この模範的な短文は、「週刊新潮」が掲載した朝日新聞阪神支局襲撃犯の手記に関するもので、題名は「『週刊新潮』の誤報」となっていた。
筆者の池上彰は、まず「週刊新潮」を褒めることから始める。記事タイトルのつけかたが抜群にうまいので、自分もタイトルに惹かれて、つい「週刊新潮」を買ってしまうというのである。
既に明らかになっているように、「週刊新潮」編集部に自分が犯人だと名乗り出た男はニセ者で、編集長は彼にまんまと騙されてしまったのだ。そのため編集長は誌上で真相を説明しなければならなくなり、
=「『週刊新潮』は、こうして『ニセ実行犯』に騙された」=
と題する長文の記事を掲載することになったのである。
私は新聞広告でこのタイトルを見て、思わず笑ってしまった。まるで、これでは、結婚詐欺師に騙された世間知らずの娘による投稿手記のタイトルみたいではないか。「週刊新潮」には、生き馬の目を抜くような凄腕のライターがたくさんいて、あることないことを書き立てるので、数ある週刊誌の中で訴えられる件数が最も多いといわれている。その野武士集団のトップが、男に捨てられた小娘みたいな文章を書いているのだ。これは是非とも読んでおかねばなるまいと思って、私は急ぎスーパーの書籍部に走ったのである。
「池上彰の新聞ななめ読み」の筆者は、私を失笑させた「騙された」というタイトルについて、「これだと週刊新潮が被害者みたいではないか」と疑問を呈している。彼は、「週刊新潮」は被害者なのではない、間違った情報を流したことで読者を混乱させた加害者なのだという至極まっとうな指摘をした上で、タイトルとしては副題の「本誌はいかなる『間違い』を犯したのか」の方が相応しいと教示している。
池上は、問題点を的確にあぶり出しておいて、最後にこういって皮肉をきかせるのだ。
「週刊新潮」は間違いを認めるタイトルの付け方を、間違ったのではないか
なぜ池上彰の文章に感心したかといえば、最初にタイトルの付け方を褒めておいて、次に「週刊新潮」の誤りを指摘し、文末で再びタイトルの付け方に戻って編集長の反省を求めるからだ。「タイトルの付け方」というテーマから一歩も踏み出すことなく、言うべきことをちゃんと言っているのだ。
私も彼の論法にならって、新潮社ならびに「週刊新潮」を褒めることから始めたい。
私は、昔、「週刊新潮」を面白く読んでいたし、版元の新潮社にも好意を持っていたのである。新潮社は、40年ほど前に記念事業として全国の高校図書館に新潮文庫100冊を寄贈したことがある。この文庫本は、表紙をハードカバーにした特製品だったから、これを百冊そろえて無料で各高校に寄贈するのは相当な出費だったと思われる。出版社がこんなふうに本を寄贈してくれれば、予算不足に悩んでいる学校図書館はおおいに助かるのだが、こうした善意を見せてくれた出版社は新潮社以外にはなかった。
そして「週刊新潮」も発刊当時はなかなか魅力があったのだ。出版社発刊の週刊誌としてトップを切った「週刊新潮」は、谷内六郎の表紙をはじめ斬新な企画が多く、何から何まで清新な感じがしたのだ。
それが、新潮社の右傾化と共に、だんだんおかしくなって行ったのである。
中国で反日デモが起きた頃、新聞に「週刊新潮」の広告が載っていた。それによると、「週刊新潮」は、中国の反日デモを暴走させた犯人は朝日新聞だきめつけて、「『朝日』が立派に育てた中国『反日暴徒』」というタイトルの記事を載せているらしかった。
いつの間にか、新潮社系の雑誌は「新潮45」から「週刊新潮」にいたるまで、そろって中国非難の右寄り記事を好んで掲載するようになっていたのである。中国の反日デモは、右傾化した日本のマスコミが中国敵視の報道をすることに反発して起きたものだから、常識的には中国の「反日暴徒」を育てた戦犯は、「新潮45」や「週刊新潮」になる筈だった。
にもかかわらず、その「週刊新潮」が日中友好を説いている朝日新聞を戦犯扱いするのだから、こんなヘンテコな話はない。これは火遊びをしていた子供が、隣家の板塀を燃やしてしまい、犯人は日頃火遊びを止めようと言っている「朝日おじさん」なんだと触れ回っているようなものだ。
今度、買ってきた編集長による弁明記事掲載の「週刊新潮」にも、相変わらずこの種の記事が載っていた。そのタイトルは、「歴史歪曲と『台湾人』も激怒したNHK『超偏向』番組」となっており、文中には次のような大げさな文字が並んでいる。
「4月5日に放送されたNHKスペシャルの『超偏向』ぶりに、識者や関係者、そして一般視聴者から怒濤の批判が沸き起こっている」
私は寡聞にして「怒濤の批判」なるものを耳にしたことがないのだが、誌上で金美齢や櫻井よしこというような「超タカ派ばあさん」が金切り声をはりあげてNHKを罵っているので、「週刊新潮」の編集者はそのキンキン声を「怒濤の批判」と錯覚してしまったのだろう。
私は問題のテレビを見ている。けれども、それは偏向でも何でもなく、ごく真っ当な番組なのである。アジア諸国の中で最初に近代化した日本は、日清戦争で台湾を獲得すると、欧米先進国の真似をして植民地民衆に横暴な態度で臨んだのだった。台湾で育った埴谷雄高などは、そうした光景を見て、日本人であることがつくずくイヤになったと語っている。
だが、日本に対する批判をことごとく反日的、売国的と見る「週刊新潮」は、それが歴史的な事実に基づくものであろうが、体験者の証言であろうが、日本の評価を下げるような言説に対しては条件反射的に「超偏向」と難癖をつけるのだ。そのやり方と来たら、ヤクザの言いがかりにそっくりなのである。
例えば、問題のテレビは、後藤新平の功績として樟脳の輸出港としてキールン港を整備し、縦断鉄道を建設したことを紹介している。「週刊新潮」は、これに噛みついて、
=「後藤新平」評価のウソ=
という一章を設けて、NHKを攻撃するのである。
エッ、NHKはウソを放送したの?
と驚いて、その章を読んでみると、後藤新平はこれ以外にも米作りやサトウキビの栽培を奨励しているのに、そのことに触れないからNHKはウソの評価をしているというのだ。後藤新平の功績を全部挙げないのは、彼に悪意を持っているからだと言わぬばかりである。この流儀で言うと、「エジソンは蓄音機を発明した」と言うだけではウソの評価をしたことになり、エジソンについて語るときには、彼の発明した数十の発明品の全部を列挙しなければならなくなる。
編集長による弁明記事も、おかしなものだった。
今回の問題で「週刊新潮」編集長がまず反省しなければならないのは、数ある新聞・雑誌の編集者の中で、「ニセ実行犯」の詐術に引っかかったのは彼だけだったということではないだろうか。ニセ実行犯の「島村氏」は、多くの編集者に手紙を出している。「週刊新潮」と島村氏の関係も、島村氏が、「前略 突然このような便りを差し上げますこと、お許しください」という手紙を新潮社に出したことによって始まっているのである。
朝日新聞もこの手紙をもらって、当時獄中にいた島村氏に面会するため記者を網走まで派遣している。そして島村氏は偽物だと判断して、以後の交渉を断っている。島村氏の撒き餌に引っかかったのは、「週刊新潮」だけだったのだから、編集長はまず自らの不明を満天下に詫びなければならないのだ。
ところが編集長は、自己の過ちを正当化するために、島村氏をこんな風に美化して描いている。
「こちらが一を訊けば、十返ってくる、といった感じだった。身振り手振りを交えつつ、眼光鋭く記者を見据え、あるいは笑顔で、どちらかというとゆっくりとしたペースで島村氏は語り続けた。・・・・実に臨場感に富み、迫真性に満ちていた」
編集長の文章を読んでいると、少なくとも二回は相手のインチキに気づいて引き返すチャンスがあったように見える。だが、編集長は功名心に目がくらみ、それを見逃してしまっている。詐欺に引っかかるのは、やはり成功への欲望の強い者なのである。
新潮社と「週刊新潮」には、今回の過ちがどこから来ているか、静かに考えてほしい。国家主義の走狗になった出版社は、皆、姿を消していはしないだろうか。