<貧乏な暮らし>
私は日頃、自己紹介をするときに「自分は貧乏教員のセガレで―――」というようなことを口にしてきたし、実際、子供の時分は自分の家が貧乏だと思っていた。地方都市の師範学校付属小学校に通っていて、まわりに我が家より金持ちの子がたくさんいたからだ。
ところが小学校6年のとき、田舎の学校に転校してみると自分より貧乏な家の子がいっぱいいたのである。そのことを、私は習字の時間に担任の先生が彼らに古新聞を渡していることで知った。当時は、自宅から持参した新聞紙を使って習字の練習をしていたのだが、家で新聞を取っていない生徒が何人もいたから、先生はその子らのために家から古新聞を持ってきて分けてやっていたのである。
新聞を取っていない家があるというのも驚きだったが、洋服が買えずに汚い着物姿で登校してくる女生徒がいるのには、もっと驚かされた。彼女は割に整った顔立ちをしていたけれども、浅黒い顔をしていた。あれは、滅多に風呂にはいらなかったためではないかと、後になって考えようになった。
その小学校にいたのは一年だけで、村の小学校を卒業すると10キロほど離れた町の旧制中学校に通うようになった。この学校に入ると、また、級友との比較で自分の家が貧乏だと感じるようになる。こちらは腕時計も万年筆も持っていないし、参考書のたぐいを一冊も持っていないのに、仲間の多くはそれらを所持していたからだった。
世の中に出てから、私は自分が「貧乏人の子」だと自己紹介するようになったけれども、事実は貧乏というものを体験したことはなかったのだ。そして、貧乏な人間を間近に見たこともなかった。私の貧乏観は、自他の金の使い方を比較した結果に過ぎず、相対的な、そして心理的なものでしかなかった。
私が本当の意味で貧乏というものを知ったのは、結核療養所に入ってからだった。貧乏というのは相対的心理的なものではなく、あえていえば構造的なものなのである。
数日前に、新聞のコラムを読んでいたら、結核療養所の患者が詠んだ短歌が載っていた(朝日新聞「天声人語」)。
ボロまとい訪いくる母に看護婦の
中の一人が優しかりけり
結核療養所に入院している患者のところに、ボロを着た母親が見舞いに来るという光景を私は間近に見たことがある。もしかすると、この短歌の作者は、同じ病室にいたあの若者のものではないかと一瞬考えたほどだった。
私が東京郊外の結核療養所にいた時、東京都庁で給仕をしていたという若者が入院してきた。昭和30年のことだった。あの頃には、役所や会社に「給仕」と呼ばれる少年たちがいて、コマネズミのように走り回って雑用を片づけていたのである。だが、その若者は、身の丈180センチに近い長身で、給仕というには少し年を取りすぎていた。高校3年生くらいに見えた。
この若者が貧しい暮らしをしていることは、一目で分かった。持ち物として持参したのは、寝間着のための薄汚れた浴衣一枚だけで、これを素肌に着込んでしまうと、後は何もないのだ。彼は下着を持っていないので、浴衣をじかに着るしかなかったのである。
貧しい暮らしがそうさせたのか、彼には若者らしい初々しいところは微塵もなかった。大部屋での生活が始まっても、ぎょろりと光る鷹のように鋭い目でまわりを見回しているだけだった。だから、彼に話しかける者は誰もなかった。そして、この若者にはへんに押しの強いところがあった。
私は、ガラス戸の直ぐ近くの「ベランダ」と呼ばれる区画で寝ていた。安静時間が過ぎて自由時間になると、大部屋の患者たちは起きあがって歩き回ったり、雑談に興じたりする。手術をすませたばかりの私は、寝たまま枕元のラジオをつけて音楽を聞いていることが多かった。音を低くしていれば、ラジオの音楽を気にするような患者はいなかったのだ。
しかし、例の若者は、私に文句をつけにやってきたのである。彼は歩み寄ってくると、私の顔を鷹のような目で見つめて言った。
「ラジオを消してくれませんか」
キチンとした姿勢で、馬鹿丁寧な口調で、まるでホテルのボーイが上客に向かって語りかけるような四角四面の態度だったが、そこには相手に有無をいわせないような押しの強さがあった。私がラジオを消すのを見届けると、相手はありがとうともいわずに自分のベットに戻っていった。
この若者の母親が、ある日療養所にやってきたのである。
やはり、安静時間が終わって、自由時間になった時だった。ベットに寝てガラス戸越しに中庭を眺めていたら、50格好の妙な女が庭を横切ってこちらに歩いてくるのだ。季節は春だったのに、彼女は厚手の半纏のようなものを着込み、ズボンも冬用らしい分厚いものをはいている。私は相手が乞食女か、痴呆の女ではないかと思った。だが、彼女はどんどんこちらの方に近づいてきて、ガラス戸の外側のテラスに上がってくる。そしてガラス戸に顔をくっつけるようにして病室の中を覗き始めた。
近くで見ると、女の半白の髪は乱れ、たるんだ顔は赤黒く日焼けしていた。重い瞼の下の目が動かないので、まるで盲人のように見える。私は彼女の一番近くにいたので、ベットから下りて相手の目的が何であるか聞きただそうと思った。この時、若者もテラスにいる女に気がついたらしかった。
若者は私を押しのけるようにしてガラス戸を開けて、女を室内に導き入れた。そして相手の肩を抱きかかえながら、自分のベットに連れて行って椅子に座らせた。この間、若者も女も一言も言葉を交わさない。が、若者が相手を下にも置かないように大事に扱っていることで、女が彼の母親だと分かった。
若者は母親の顔を覗き込みながら、いたわるような表情で話しかけている。母親は背中を丸めて、息子の言葉を聞いているだけだった。
(無理をしているな)と私は思った。
若者は、母親が人々から敬遠される存在であることを承知している。だからこそ、彼はそんな母親を相手にして、これ以上はないという孝行息子を演じて見せるのだ。彼はこのことに限らず、すべてについて演技していた。演技とは意識しないで演技していた。
おそらく二人は母子一体となって生きてきたに違いない。だが、母親は頭が鈍くなっているので、自分はありったけの衣類を着込ん寒さを防いでいるけれども、息子にシャツを買ってやるということには考え及ばないのである。
もし母親がちゃんとしていたら、母子の生活はここまで落ち込むことはなかったのではないか。家庭というのは、家族に重病人がいるとか、精神疾患を持つ者がいるとか、構造的な要因を抱え込んでいる場合に貧しくなるのだが、一家を裏方から支える女が苦労続きで頭を鈍くしてしまった場合も、構造的な貧困の事例になるのだ。
結核療養所で親しくなったKという患者も、一家を支える裏方の女性に問題があるようだった。Kは30歳前後のまともな男だったが、やはり手持ちのシャツが不足しているらしくて、寒い冬場になっても寝間着の浴衣一枚をじかに着ていた。
彼は所帯持ちということだったのに、半年たっても家族が誰も見舞いにこない。それで療養仲間の気安さから、奥さんと正式に結婚しているのかと彼に尋ねたことがある。すると、彼は人の良さそうな顔に困ったような笑いを浮かべた。
「ちゃんと式を挙げて、結婚しているよ。―――騙されて一緒になったんだけど」
騙されたというのは、仲人に騙されたという意味なのか、結婚相手の女性に騙されたという意味なのか分からなかったが、それ以上質問するのは憚られた。
Kが手術をする日になると、さすがに彼の妻も個室に来ていた。手術前には、患者は大部屋から個室に移されるのである。私はその個室で初めてKの妻に会ったのだった。おとなしそうだが、あまり気のきかない、うすぼんやりした女だった。私は、すべてが分かったような気がした。Kが、「騙されたみたいだ」といった意味も理解できたのである。
若者とK、二人を見ていると、その日常は漏水の続く舟に乗っているようなものではないかという気がした。舟が沈むのを防ぐために、水をくみ出す生活が果てしなく続くのである。水漏れをなくすためには、母や妻を捨てるしかない。しかし二人はそんなことを考えもしないのである。若者は押しの強さで、Kは人のよさで、今後もうち続く貧乏暮らしに耐えて行くに違いなかった。
私は思ったのである―――構造的な貧しさの中で、愚痴も言わずに黙々と働いている人たちこそ讃えられるべき勇者なのかもしれない、と。