<心にたまるゴミ>
私は散文的な人間なので、現代詩というものをよく理解できないでいる。だから、人が中原中也の詩を褒めていても、ポカンとして聞いているだけなのだ。だが、5月3日の朝日新聞に載っていた谷川俊太郎の詩には、心惹かれるものがあった。こういう詩なら分かるのである。
「散歩」という題だった。
<やめたいと思うのにやめられない
泥水をかき回すように
何度も何度も心をかき回して
濁りきった心をかかえて部屋を出た
山に雪が残っていた
空に太陽が輝いていた
電線に鳥がとまっていた
道に犬を散歩させる人がいた
いつもの景色を眺めて歩いた
泥がだんだん沈殿していって
心が少しずつ透き通ってきて
世界がはっきり見えてきて
その美しさにびっくりする>
この世に完全な人間はいないから、生きている限り、失敗したり、恥をかいたり、屈辱感にさいなまれたりする。と思うと、よこしまな欲望を抱いたり、人を傷つけたり、つまらぬ自慢話をしたりもするのである。そして、それら自分があえて行ったマイナス行動の記憶は、澱り(おり)のようになって心に残るのだ。
谷川俊太郎は、それらの心の澱りや心のゴミは沈殿して底の方に沈んでいるが、ことあるごとに湧き起こって、心を「濁りきった」ものにするという。実際、人は、ひとたび自己嫌悪に襲われるやいなや、過去の失敗例を洗いざらい思い出してわが身をさいなむのである。
心の底に沈殿しているマイナスの記憶を、何とかして消し去る方法はないものだろうか。―――そんな方法はないのである。
谷川は、散歩に出て、広い世界に心を遊ばせることを推奨する。だが、それは対症療法でしかない。マイナスの記憶は、トラウマとなって脳の細胞に食い込んでいるから、われわれは死ぬまでこれらを抱えたまま生きて行くしかないのだ。
年を取ると、さまざまな体験が増えてくるから、マイナスの記憶がもたらす痛みも、相対化されて弱くなるということはある。そのかわり、体験量の増加に伴って、マイナスの行動も増えてくるから、心の痛みは総体として変わりなくなる。私は、以前にこのブログに、「振り向けば鬼千匹」という記事を書いたことがあるが、長生きすれば鬼の数は二千にも三千にも増えて行くのである。
過去を振り返って、楽しい記憶を思い出して幸福な気持ちになることもある。だが、比較すると、やはりマイナスの記憶の方が多いのだ。とすると、晩年を心豊かに過ごすには、意識が過去の方向に向かうことを避ければいいと言うことになる。何もすることがなければ、意識は逆流して過去に向かうけれども、意識が未来に向かっていれば、鬼千匹の陥穽に落ち込むことはないのだ。
目を未来に向ければ、稔り多き晩年を過ごすことが出来る。が、警戒すべきは、「生涯現役」と称して職場のポストにしがみつくことだ。そんなことをすれば、マイナスの記憶をいたずらに増やし、背後に迫る鬼軍団をさらに強化することになる。
ここに皮肉な現象があるのである。意識が過去に向かえば心に痛みを感じるが、その苦痛に満ちた過去を直視し、これをありのままに綴って自分史にすれば苦悩から脱却できるのである。人生最後の仕事として、虚飾をはぶいた自伝を家族に残すのも、老後の生き方のひとつになるのだ。
人は未来に目を向けることによって、過去に毒されずに生きることができる。体験的にいえば、未来のイメージは、遠大であればあるほどいいのである。人間は、個を超えて人類の未来に望みを託して生きるときにのみ、安らかな気持ちで日々を送ることが出来る。