<下僕の言葉>
テレビで宮崎哲弥と某氏が、皇室問題を論議しているのを見ていて、笑いをこらえるのに苦労した。まず第一に、宮崎哲弥が使い慣れない皇族関連の敬語でしゃべるのに難渋し、吃ったりつかえたりしているのがおかしかった。日本人は、仲間同士で皇族に関する話をするときには敬語などを使わない。だが、公的な場面で皇室を話題にするときには、「特別仕様の敬語」を使うことになっている。相手がまだ幼児であっても、「さん」付けで呼ばないで、「真子さま」というように「さま」をくっつけて呼ぶのである。
さて、この番組で宮崎哲弥の対談相手になった某氏は、皇室問題に詳しいというどこかの大学の教授だった。彼は敬虔な面持ちで、天皇がいかに公務に熱心であるかを、特別仕様の敬語を駆使して事細かに語り続けた。
天皇の行為には、
1:国事行為
2;象徴としての行為
3:宮中祭祀
の三つがあり、そのいずれについても現天皇は人の限度を越えるほどの努力を重ねて実行しているというのである。彼はさまざまな事例を挙げる。例えば、春・秋の叙勲に際しては、数千人の叙勲者に謁見するため天皇はほぼ1週間をつぶしているというようなことを。
戦後に制定された憲法では、国会を何時開くか決めるのは内閣で、その報告を受けて、当日に天皇は国会に出かけて開会を宣言することになっている。その議場に出席する国会議員のなかには、羽織袴の男性議員がいるかと思うと、与党の女性議員は誘い合わせて振り袖の盛装姿で現れる。失礼ながら、こうした光景は私には安手の村芝居みたいに見えるのである。
戦後に制定された新憲法では、天皇は政治に関与できず、政府その他の機関が決めたことを形式的に追認する権限しか与えられていない。つまり天皇の行為は、やってもやらなくてもいいような当たり障りのないものに限られている。だから、天皇の意志には関わりなく国会は開かれるし、首相も選出される。同様に皇族が出席しなくても、国体や植樹祭は開催される。
天皇や皇族が顔を出そうと出すまいと、諸々の行事は滞りなく進行し、国家の歯車が順調に回っているとしたら、天皇は無理をして国事行為その他の行為を行う必要はないではないか。
―――私が某氏の話を聞いていて、なぜ笑いをこらえるのに苦労したかといえば、東京で教師をしていた頃に、天皇制の問題で先輩教師にいきなり殴られたことがあるからだった。
極言すれば、天皇はいてもいなくても同じなのである。そうだとすれば、天皇が人間である必要はない。ロボットで十分ではないか。私は先輩教師と論争しながら、戦前の日本がそれほど恋しいのか、それなら、天皇に似せたロボットを大量に作り、学校の<奉安殿>に格納しておき、式日に引っ張り出して教育勅語を読ませればいい、と放言したら、とたんに一発顔を殴られたのである。
宮崎哲弥を相手にして、学者先生が列挙してみせた天皇の行為は、宮中祭祀を含めて、すべてロボットによって代行可能な行為ばかりだったから、私は以前に先輩教師に殴られたことなどを思い出して、おかしくてならなかったのである。
日本人は、所属集団のモラルや価値観を共有することで世界にも類例のない平和で犯罪の少ない社会を作り出して来た。こうした日本社会の美点は、日本人の政治意識の遅れと裏腹の関係になっている。明治時代の高官らは、大礼服のズボンの内部に「小便袋」を取りつけて宮中儀式に参列したいたという。荘重で空虚な儀式が延々と続き、トイレに立つことが出来ないからだった。小便袋の話と、羽織・袴で国会の開会を迎える現代の議員の間には、どこかで通じているところがあると思うのだ。
そろそろ日本人も所属集団を突き抜けて、人類普遍の高みから日本社会を再点検する時期に来ているのではなかろうか。第一、皇族も同じ人間であるのに、国民が彼らに対して下僕が主人に対するような言葉遣いをしなければならないのは変だ。彼らに対して、人間としての敬意を払いさえすれば、それで十分ではないか。