(金子光晴)
<アウトサイダー対秀才>
明治以後の作家や評論家で、第一等の秀才といえば,まず、森鴎外ではなかろうか。その証拠を挙げろといわれても困るのだが、あえてドグマをここに開陳すれば、彼の文章を読むと、こちらの頭までからりと澄みわたるような気がするからだ。彼は問題の隅々まで見通した上で、平易な口語を使って要点を述べる。鴎外の子どもたちによると、彼が作品で使う言葉や言い回しは、普段、家族に話しているものと同じだったそうである。鴎外は、借り物の言葉に頼ることなく、普段使用している口語で事の本質を解明する能力を持っていたのだ。
簡にして要を得た文体といえば、加藤周一もそうである。「日本文学史序説」は要領のいい本だが、それにもまして加藤周一の本領を示しているのは自伝「羊の歌」である。整然と書かれたこの本を読んでいると、こちらの頭までよくなるような気がしてくるのだ。加藤周一は、鴎外と同様に医学部の出身で、学芸を探究する目は広く古今東西に及んでいる。その点で彼は鴎外の生まれ変わりといってもいいような男だった。
ほかにも秀才タイプの作家や評論家は多い。私が好んで彼らの本を読むのは、こちらの頭が悪いからに違いないが、それだけではない、彼らがストイックな生き方をしているからなのだ。
もっとも、秀才の中にはストイシズムを欠き、鶴見俊輔の用語を借りれば何にでもトップになりたがる「一番主義」に陥っているものも多い。世評に敏感過ぎた芥川龍之介や三島由紀夫に欠けていたのは、鴎外流のストイシズムだった。
鴎外や加藤周一がストイックだったといっても、自分をむち打って無理なことをするという意味のストイシズムではない。愚かしい行動を自然に排除し、合目的的な生き方をすることで自ずと生まれてきたストイシズムであり、すぐれた知性の産物としての禁欲主義だった。
例えば、鴎外は陸軍省の局長室で昼食を取るときに、焼き芋を好んで食べていたといわれる。これは当時、「乃木式」といわれた簡素な生き方をするためではなかった。外字新聞を読みながら昼食を取ることを例としていた彼は、面白い記事を抜きだして翻訳するための便を考えて焼き芋を食べていたのだ。翻訳された原稿は、「スバル」誌に「椋鳥通信」というタイトルで毎月掲載されたが、食事をしながら原稿を書くには片手で焼き芋、片手でペンを持つのが具合よかったのである。
読書欲をそそるのは、第一級の秀才があらわした本だけではない。それとは逆に非秀才の書いたアンチ・ストイシズムの本も興味をそそるのである。例えば、直木三十五や坂口安吾の本は、鴎外や大岡昇平の本と並んで、愛読書になっている。直木三十五は、映画や出版に手を出して山のような借金を作り、それを返済するために猛烈なスピードで原稿を書いて、「斬り死に」するような死に方をしている。
彼は当時営業を始めたばかりの旅客機に乗るのが大好きで、飛行機に搭乗する回数が日本人旅客のベストテンにはいるほど飛行場に通い詰めた。好きだということになると、トコトンまで突き進んで悲壮な最期を遂げたのである。坂口安吾も競輪に没頭したり、覚醒剤と睡眠剤を交互に服用するという無茶なことをして死んでいる。こうした自らの好みに殉ずるというような生き方をした男たちは、その放胆な作品によって読者をアウトサイダーの世界に誘い出してくれる。そして世の「良識」に押しつぶされていた読者を蘇生させてくれるのである。
最近の収穫は、金子光晴を発見したことだった。
パソコンで「松岡正剛の千夜千冊」を読んでいたら、金子光晴の項に次のような記事があった。太平洋戦争の末期に、息子が軍隊に召集されるのを防ぐために彼がいかなる戦術を用いたかという記事である。
<息子が招集されることになった。金子は医師の診断書を入手して息子を戦地に行かせないために、とんでもないことをする。
息子を応接室にとじこめて、ナマの松葉を燻す。いっぱいの洋書をリュックサックに入れて、これを背負わせ1000メートルを駆け足させる。「その難業を続けさせる自分が鬼軍曹のように思われてきて」、さすがに金子は閉口するが、このサボタージュはなんとか成功した。
かくて、招集をぬらりくらりと逃げとおした息子と二人で、疎開先の山中湖で金子は玉音放送を聞く>
医者の診断書を手に入れるために、松葉で息子をいぶしたり、重い荷を背負わせて駆け足させたりしたという話は何かで読んで承知していたが、それが金子光晴だとは知らないでいた。それで、金子光晴の本を探し始めた。今から2,30年ほど前だったか、金子光晴がブームになったことがあり、その節、彼の本を数冊買った記憶があるからだった。
雑多な本を買ってきて、それをそのまま書架に押し込んでいるので、目当ての本を探し出すのに毎度苦労する。だが、今回は、「ねむれ巴里」という本が直ぐに見つかった。早速読み始める。
この本は、東南アジアを流れ歩いていた金子光晴が、客船に乗り、パリ目指して出発するところから書き始めている。彼は日本人4人で、8人用の部屋に荷を下ろしたが、同室の3人が中国人を侮蔑するような話をするのが気に入らなかった。日本軍の中国侵略が始まり、日本人の中国に対する優越感情が高まっていた時期だったのだ。彼はそんな話を聞くのがイヤになって、船の客室係に向かい合いの8人部屋に移してくれと申し出る。その船室にはパリに留学する中国人の男女学生が、やはり4人乗り込んでいたのである。
普通なら、そんな希望の通るはずはなかったが、その客船は日本の船だったから彼は中国人の船室に移ることが出来た。中国人留学生は、突然に部屋に割り込んできた日本人におどろいた様子だった。彼ら留学生は、許嫁の関係にある男女と同じく婚約関係になりつつある男女の二組に分かれていた。そこへ縁もゆかりもない30男が加わったのである。
やがて、金子は四人の留学生と親しく口をきくようになる。そんなある夜、彼が上段のベットで目覚めると、室内の学生たちはすっかり眠りこけていた。下のベットには譚という女子学生が眠っている。ベットを下りた金子は思わず譚の体に手を出し、そのことを、露悪的にこう書きつづるのだ。
<僕の寝ている下の藁布団のベッドで譚嬢は、しずかに眠っていた。
船に馴れて、船酔いに苦しんでいるものはなかった。僕は、からだをかがみこむようにして、彼女の寝顔をしばらく眺めていたが、腹の割れ目から手を入れて、彼女のからだをさわった。じっとりとからだが汗ばんでいた。
腹のほうから、背のほうをさぐってゆくと、小高くふくれあがった肛門らしいものをさぐりあてた。その手を引きぬいて、指を鼻にかざすと、日本人とすこしも変らない、強い糞臭がした。同糞同臭だとおもうと、「お手々つなげば、世界は一つ」というフランスの詩王ポール・フォールの小唄の一節が思い出されて、可笑しかった。>
彼はそれから、部屋を出て甲板にあがり、深夜の海を眺める。
この文章のユニークなところは、「同糞同臭」のくだりなのだ。金子光晴はこんな具合にあからさまに事実を語ることによって高い評価を受けているらしいのである。私は彼の本をまとめて読みたくなった。