甘口辛口

中村うさぎの話芸

2009/6/10(水) 午後 5:46

<中村うさぎの話芸>


当ブログのコメント欄を読むまでは、「中村うさぎ」のことは何も知らなかった。そこで、中村うさぎとは何者かと思ってインターネットで調べてみたら、彼女に関する画像や動画がどっさり載っていて、とりわけユーチューブの映像には驚かされた。どうやら、うさぎ女史は女性には珍しい破滅型の作家らしいのである。

「自宅公開」という動画によれば、彼女は典型的な「片付けられない女」だった。玄関のドアを開けると、早くも溢れんばかりの衣類や道具で通路がふさがれている。やっと奥の居間らしき部屋にたどり着いても、そこには段ボール箱やら下着やらが山ほど積み重ねられ、部屋の真ん中に僅かな空間しか残されていない。テレビにはこれと同じようなゴミ屋敷がよく出てくるが、そこで暮らしている住人は精神に異常を来しているらしい独身の老女が多い。ところが、中村うさぎは分別盛りのエッセイストで、なかなかの美女なのである。

興味を感じて、安売り古書店に立ち寄ったおりに、彼女の本を探したけれども見あたらない。100円コーナーを一巡すれば、一冊や二冊彼女の著書が見つかるだろうと思っていたが、アテがはずれた。やむを得ず、インターネットで中村うさぎのエッセー集を何冊か注文する。

届いた本の中に、「愚者の道」というのがあったので、まずこれから読みはじめ、そしてたちまち呆れ果てた。中村うさぎは、ゴミ屋敷の住人、バツイチ女であることに加えて、「低俗な趣味」におぼれている典型的なミーハーらしいのであった。最初の結婚にやぶれた彼女は、高価なブランド品を買いあさりはじめる。中村自身、これを「買い物依存症」と呼んで、ブランド品のために総額数千万円を費やしたと告白している。

次に彼女がはまったのは、ホスト遊びだった。このためにも中村は千万円レベルの金を使い、やっとそれを卒業したと思ったら、今度は整形手術にはまってしまうのである。そして、顔の造作を変えたり、乳房をふくらませたりしたあとで、セミヌードの写真を雑誌に公開する。

こんな阿呆の限りを尽くしながら、なぜ彼女は編集者や読者から見捨てられなかったかといえば―――独得の話芸の為なのである。

私は、「愚者の道」につづいて、「ダメな女と呼んでくれ」というエッセー集を読み、その話芸に引き込まれ、これはまるで上手な落語を聞いているようだなと思った。彼女は自分がいかにダメ女であるかを、面白おかしく語って、読者を飽きさせない。落語には、熊さんや八さんが主役になって馬鹿なことをしでかし、ご隠居に叱られている。

中村うさぎは自らを熊さん八さんの立場に置き、自分を笑いものにしながら、時折は、隠居の立場に乗り移り、読者の弱点をえぐってみせる。だが直ぐに、「この世で一番のバカタレは私自身なんだよなあ」と自分を卑下して見せて、読者の機嫌を取り結ぶのである。そして、気落ちしている読者をこういって励ますのだ。

「ま、とりあえず、生きてりゃそのうち、いいことあるさ。それだけは、確かだぜ」

こうした円転滑脱な話術を昔は斉藤美奈子が見せてくれたものだった。が、彼女も朝日新聞の文芸時評を書くほど偉くなってしまい、今では気の利いた話芸を見せてくれることが滅多になくなった。中村うさぎがもう少し知的になれば、斉藤美奈子二世になれる素地があるのに惜しいことである。いや、いや、今でも彼女はシャープな分析力を見せているぞ。

中村が最初の夫に出会ったのは20代半ばで、彼女がOLをやめてコピーライターに転職した頃だった。夫は一つ年上のコピーライターだったが、彼には才能があり、「彼の書いた文章を読むたびに愚者(中村うさぎ)はリスペクト(尊敬)の想いを新たにし、同時に、己の才能のなさに絶望する」のだった。

中村は、「あっという間に彼に傾倒した。それは恋愛というよりも信心に近いものだった」。そして、彼とつきあってみたら、地獄が待っていたのである。

<付き合い始めたその日から 彼はさっそく愚者(中村)を裁き始めた。言葉の選び方が粗雑である、ものの考え方が稚拙である、態度が悪い、気が利かない、何から何までなってない……容赦ない全否定に、愚者はべしゃんこになった。

それでも彼を慕い続けたのは、その全否定が神の言葉のごとく、愚者の死と再生と成長を促すものだと信じていたからだ。新しい自分になりたい、という愚者の自己再生の願望は、まるでカルト教団の教祖を信奉する蒙昧なる信者のように、自分を破壊する言葉を求めたのである(「愚者の道」)>

やがて、彼女の迷いがさめるときが来た。

<やがて、彼が自分の思い描いていたほど完璧な孤高の人物ではなく、むしろ俗悪なコンプレックスゆえに尊大に振る舞うだけの張りぼての神であることに気づいても、愚者は「彼を理解し、癒してあげられるのは自分だけかも」 という歪んだ存在意義をそこに見出し、ますます彼に執着した。結局、愚者は、世間が言うところの 「いい女」 になりたかったのである。自己犠牲を厭わず、男のナルシシズムに奉仕する女……そんなものになることで、己のナルシシズムを満たそうとしたのだ。>

最初の夫と別れた後で、中村うさぎは「買い物依存症」になるのだが、これについてもちゃんと分析している。彼女は、馬鹿なことをしながらも、その馬鹿さ加減を明確に自覚しているのである。

<買い物依存症にもいろいろなパターンがあるが、私の場合は「高額のブランド物を買い漁る」というものであった。既に家にはブランド物の服が山のように積み重なっているというのに、しかも、それを買うために一千万円近い前借りや借金をしているというのに、懲りもせずシャネルやエルメスのブティックに行っては、とても支払えないほどの金額をクレジットカードで切ってしまう。

その瞬間、頭の中は真っ白になり、「もう終わりだ。これでとうとう破産する」という恐怖とともに、「えーい、どうにでもなれ」というヤケクソの開放感が、激しい快感の奔流となって、どっと脳内に押し寄せるのだ。破滅の恐怖と背中合わせになった背徳の快感……それが「依存症」の特徴である。この独特の、陶然とした麻痺の感覚が、「やめたくても、やめられない」という強迫的な行為を何度も何度も繰り返させるのだ。>

こういう具合に分析していって、彼女はついにポイントをつかむ。

<私は、何が欲しいのだろう。ブランド物でないことは確かだ。その証拠に、どんなに素敵な服やバッグを買っても大切にしないし、一度も身につけないで部屋に放り出すことさえある。何よりも、買っても買っても満足しないのは、それが「私の本当に欲しい物」ではないからじゃないか。

それでは、私が欲しいのは何だ。それは「自分」なのだ、と、ある時、気づいた。>

中村うさぎは、内面を見つめてこうした発見をする一方で、自身のブランド狂いを、「どこに快感があるかというと、経済力の自己顕示欲が満たされる快感だと思う」とも正直に白状している。一個数千円で買えるバックがあるのに、十万円もするブランド物のバックを持ち歩くのは、そうした愚行をなし得る経済力があることを誇示するためなのだ。

彼女は買い物依存症をなおしたと思ったら、ホスト狂いを始める自分自身を次のように規定する。

「肥大したナルシシズムを抱え、見栄と野望と上昇志向のみに牽引されて生きてきた女」

ホスト狂いも、そうした女による野卑な自己顕示行為だった。これには前期と後期とがあって、前期は自分の指名したホストのランキングアップを楽しむ遊びだった。彼女が金を使えば使うほど、相手の売り上げも上がり、ホスト間のランクが上昇する。彼のランクが上がれば、中村も自分のランクが上がったような気がしたのである。

後期になると、惚れた男に金を貢ぐ色狂いの段階に突入する。この方が前期より恍惚も苦悩もはるかに大きい。彼女は男に愛されようとして金とエネルギーを入れあげたけれども相手に裏切られ、自らの「女としての価値」の低さを実感させられる。そこで、「女としての価値」の底上げをはかって美容整形に走ったのだ。

<注射でシワを消し、顔の皮を引っ張り上げる手術でタルミをなくし、胸にはシリコンを入れて小娘のように膨らませ、私は「若くて美しい自分」を手に入れようと躍起になった>

躍起になって頑張ったために容色が少しは上がったかも知れなかった。だが、彼女は現在、「お綺麗ですね」と褒められると、「整形なんですよ」と答えて、相手を気まずそうに黙らせてしまう。

中村うさぎはこういう調子で、自身の虚栄や愚かしさを面白おかしく語り、その率直な物言いで、若い女性層から支持されている。そのため、彼女の愚行は原稿を書くための素材作りであり、計算ずくの演技ではないかという声も出ているらしい。

手元にある最近号の週刊文春を見ていたら、中村うさぎのページがあり、それには第539回とあった。週刊文春はよく購入しているのに、彼女のページがあることに今まで気づかずにいたのである。読んでみたら、彼女が税金滞納のため渋谷税務署と闘争中だと書いてあり、担当の役人からそのうちに差し押さえ物件調査のため、お宅に伺いますと言われたとある。

<ああ、来るがいいさ。女王様のゴミ屋敷、とくとご覧あそばせ!>と彼女は結んでいる。中村うさぎの話芸を支えているのは、こうした腹を据えて生きる姿勢かも知れない。