(上図は、赤松登志子、下図は児玉せきと於莵)
<仮面の人・鴎外(その1)>
鴎外に熱中したのは30代の頃だった。その後、退職前後になると、もう一度「鴎外熱」が発症した。それで鴎外と漱石を比べてみようと思いたち、鴎外全集と漱石全集を読み返すことになった。
それも一段落して、また、鴎外のことを忘れるともなく忘れてしまう。が、書店で新しく出た鴎外の研究書などを見ると、ついふらふらと買ってしまうことがつづいた。けれども、鴎外熱は冷めたままだったから、それらの本は読まれることなく書架の片隅に眠っていたのである。それがどうした風の吹き回しか、それらを読んでみようという気になって、まず、そのうちの二冊を読んでみた。
「鴎外・五人の女と二人の妻」(吉野俊彦)
「鴎外の人と周辺」(講座・森鴎外巻1)
この二冊を読んで意外に思ったのは、鴎外が最初の妻赤松登志子を離別したのは、鴎外の母峰子と登志子の関係が険悪になったからだと書いてあることだった。
従来の定説では、離婚原因は登志子が嫉妬深く、ヒステリーを起こして火鉢の灰を座敷にぶちまけたり、赤松家から新婚家庭についてきたお目付役格の老女が鴎外の気に入らなかったからだとされていたのである。
第一、鴎外は結婚後に実家を出て赤松家の持ち家で暮らしていたのだから、母峰子と登志子が同居するという局面などなかった筈だし、峰子はこの離婚後、責任は息子の側にあると登志子に詫びているのである。彼女は、こういう意味のことを語っているのだ。
「この度のことは、森家側に非があるが、それというのも一家の跡取り息子がこの問題で心を痛め、病気になりかけていたからで、こうせざるを得なかった事情を察してほしい」
まさに平身低頭という形で、赤松家や、この結婚を仲介した西周に詫びている峰子を見れば、嫁姑問題が離婚の原因になっているなどとは到底信じられないのだ。しかし、この後に鴎外が母親に対してとった態度を見ると、「もしかすると」という疑いもわいてくるのである。
鴎外は登志子と別れてから、十一年間も独身をつづけている。鴎外のように軍医として高い地位にある人間が、こんなにも長く独身を守っているのは異数のことだった。だから、母は次から次に再婚の候補者を探してきて、息子に結婚するように迫るのだが、鴎外はそれをことごとく断っている。彼が破婚の原因を母にあると考えていたとしたら、母が元気なうちは、再婚する気にならないのは当然のことなのだ。目から鼻に抜けるように怜悧な母から見れば、どんな嫁も気に入らないに決まっているからである。
離婚後数年して、鴎外は九州小倉の軍医部長をしていた。東京在住の友人が、新聞に掲載された登志子の死亡記事を切り抜いて送って来たとき、彼は日記にこう書いている。
<鳴呼是れ我が旧妻なり。於菟の母なり。赤松登志子は、眉目妍好ならずと雖、色白く丈高き女子なりき。和漢文を読むことを解し、その漢籍の如きは、未見の白文を誦すること流るる如くなりき。同棲一年の後、故ありて離別す。是日島根県人の小倉に在るもの懇親会を米町住吉屋館に催す。予病と称して辞す。>
鴎外が、これほど感情をこめた日記を書いたことはなかった。その意味で、これは鴎外にとっては希有の文章なのである。これを読めば、鴎外が別れた妻に憎しみを抱いていなかったことは明らかだ。とすれば、「故ありて離別す」の「故ありて」という部分に夫婦の性格不一致などを想定するのは間違っており―――例えば嫁姑問題などを持って来たくなるのである。
鴎外が離婚して暫くすると、峰子は彼に妾をあてがっている。峰子は女が妊娠することを恐れて、「うまず女(め)」を探してきて妾にしたといわれて来たが、実はこの女は森家に出入りしている古くからの馴染みの女性だったのである。
統率力に優れていた峰子は、身辺に彼女の意のままに動く手兵を数多く持っていた。彼女は鴎外が日露戦争で出征中も、留守宅で4人の女中を使っていたほどで、峰子の指揮下に置かれた下女や女中は大変に多い。その中の心利いた女中を、峰子は相手が結婚後も森家に出入りさせている。そのほかにも、森家の庭を手入れする植木職人とか、森家に出入りする人力車夫とか、森家の衣類を手がける裁縫女なども、峰子の意のままに動く手駒になっていた。
その女性、児玉せきについて、鴎外の長男於莵は次のように書いている。
<まず祖母がおせきさんを知ったので、もと士族で千住で相当の位置にあった人の未亡人だという。夫の没後も多少収入もあり、娘一人をつれ、裁縫をよくするので、仕立物など頼まれ、つましいながら身ぎれいに暮していた人との事である。・・・・紹介する人があって祖母が心やすくなり、その人柄な所に好感をもって、家での仕立物、ことに父や祖父の男物をおせきさんに頼んだという。>
峰子は、夫の静男が北千住で橘井堂医院を開業していた頃から児玉せきに仕事を頼んでいたというから、彼女とは長いつきあいなのである。児玉せきは森家が本郷駒込の観潮楼に移ってからも、森家に出入りし、峰子から鴎外の妾になってくれと頼まれると承知したのだった。
峰子は、鴎外がその気になれば直ぐに訪ねて行けるように児玉せきを観潮楼の近くに住まわせた。だが、案に相違して鴎外はほとんど妾宅に出かけなかった。森家に使われていたおえい婆さんは、峰子が鴎外にたびたび催促する場面を見ている。
「もう随分おせきのところに行っていないのだから、気晴らしに行っておいでよ」
だが、鴎外は、「うん、うん」とうなずくだけで腰を上げない。それでも、時には十時頃になって普段着にちょっと羽織を着る程度の身支度をして出かけることがあった。だが、泊まってくるかと思っていると、鴎外はほんの一、二時間で帰ってくるのだ。
鴎外は自分が何かを欲する前に息子の欲望を先へ先へと読んで、抜かりなく手を打って行く母を鬱陶しく感じ始めていた。もし登志子との結婚生活が峰子のために破綻したとすれば、鴎外は心の中でひそかに、(登志子を追い出すようなことをしなければ、母も妾の心配をしなくて済んだはずではないか)と考えていたに違いないのだ。
しかし、鴎外は、母には何も言えなかった。鴎外母子の関係は、世の常の関係とは違って極めて濃密だったのである。
津和野藩の藩医をしていた森家では、男の子が生まれないために二代続けて養子を取っていた。家付き娘の峰子が、13歳の時に静男という養子と結婚し、15歳で長男の鴎外を産んだ時には、二代にわたって待ち望んだ男の子を生んでくれたというので峰子の株は上がった。峰子は自らの評価をさらに高めるために、待望の男の子を衆に抜きんでた存在に育て上げなければならないと意欲満々だった。
15で母になった峰子は、夫が医学修行のため長期間江戸に留学することになったので全身全霊をあげて息子にかかりきりになった。鴎外は母の手で手の中の珠のように大事に育てられ、そのため神経質で臆病な子どもになった。やがて父が帰国し、弟が生まれると、鴎外はその弟に負けるほど気弱な子になっていた。彼は母に支えてもらわないと、弟と対抗できないほどの弱虫になってしまったのだ。
後年、鴎外は「筆」と題する詩を書いている。
筆
こたつに足を踏み伸べて、
臥して物書くをさな子の、
くゆる烟にみかへれば、
燃ゆるは布団の裾なりき。
あなかか様と叫びつつ、
ちびたる筆を手に持ちて、
洗濯します川ばたへ、
数町の道を馳せゆきぬ。
年を経ること三十年、
その子やうやく老いんとす、
ちびたる筆を手に持ちて、
消すべき火をばえも消さで。
この詩を読むと、幼少の頃の鴎外がどれほど母を頼りにしていたか分かるのである。
(つづく)