甘口辛口

仮面の人・鴎外(その4)

2009/6/30(火) 午後 7:12

  (森峰子)

<仮面の人・鴎外(その4)>


観潮楼には、峰子を中心にする家族と志げを中心にする家族があり、鴎外はこの二つの家族の双方に足をかけ、両方が平和共存するように心を配っていた。だが、峰子と志げが不倶戴天の敵のように睨み合っている以上、この二つの家族が和合することはありえなかった。鴎外の死後、遺児たちはそれぞれ鴎外の思い出を書いているけれども、於菟のそれと、茉莉・杏奴のそれとの間には、微妙な違いがあるのだ。

茉莉と杏奴は、大切な父の思い出を汚さないように、そして志げ一家の評判を落とさないようにと、いわば「臭いものには蓋」という方式で追憶記を書いている。例えば、鴎外が結核で死んだことを隠そうとして、父の死因は「萎縮腎」だったとしているのに対し、於菟はハッキリと父が結核だったと明記している。

そして於菟は、鴎外に妾がいたことを、「隠し妻」という表現で公表することまで敢えてしている。これは、腹違いの妹たちが、鴎外を神格化し、志げ一家をこれに連なる神聖家族のように美化して表現していることに対する反発からだと思われる。峰子と志げの対立関係は、孫・子の代まで尾を引いているのである。

鴎外は、対立する二つの家族をコントロールするに当たって、終始峰子側に肩入れしてきた。鴎外自身が美貌の妻や、その妻が産んだ可憐な幼子たちに引かれていることへの反省から、意識的にそうしていたと思われる。だが、やがてその鴎外が一転して峰子に冷たくなり、そればかりか峰子グループの於菟や潤三郎(鴎外の実弟)にまでよそよそしくなる事件が起きたのである。いわゆる「安楽死問題」である。

通説によると、鴎外が峰子に怒りを感じるようになったのには、次のような事情があったとされている。不律と茉莉が百日咳になり、とうとう不律が亡くなった時、なおも病床で苦しんでいる茉莉を見て、峰子が安楽死によって彼女を死なせてやるように提案した。幸いに、その後、茉莉は回復したが、この時に感じた鴎外の怒りは以後も収まらず、峰子グループを観潮楼の片隅に移し、ほとんど母と口を利かないようになったというのである。

鴎外が母に対して手のひらを返したような態度を取った点は、鴎外が死に臨んで、それまで忠節を尽くしてきた国家や皇室に対して突き放すような遺言を遺したのに似ている。ところが、「鴎外の人と周辺」を読むと、「森茉莉の見た鴎外」という章を担当した田中美代子は、通説とは大分異なる事実を披瀝しているのである。

田中美代子によると、事件の当事者森茉莉は、母の志げから聞かされた話として、以下のような文章を書いているという。

< 「百合さん」(注:茉莉のこと)は小さな掌を固く握りしめて胸に抱き、呼吸をする  間のない咳と闘ってゐた。咽喉へ引き込まうとする息を、次の咳が遮る。ぜいぜいと  いふ咽喉の音が、聞くに耐へない。「百合さん」の顔は大きく腫れて、化けもののや  うになり、首から下はひどく、痩せた。湿布の為に剥き出しにされる胸は赤黒く爛れ  、骨が数へられた。胸に抱いてゐる腕は一面に注射の跡である。機械的に繰返される  手当を医者と看護婦に委せて「博士」(鴎外)と「奥さん」(志げ)とは黙って「百  合さん」を、見てゐた。閉ざされた部屋の中は暗くて、死の影が差してゐる。

   その時、その寂しい、暗い家の片隅で、或相談がなされてゐた。「百合さん」の苦  痛を無くす為に、致死量の薬を射たうと言ふ計画である。この「安楽死」を思ひ立っ  て、医者に計ったのが「母君」(峰子)であった。医者がそれを「博士」に仄めかし  た。子供の苦しむのを日夜みてゐて、精神が弱った父と母は遂に、医者の仄めかしに 乗って、注射を肯んじようとした。幸、この計画は、医者が注射の仕度をしてゐた時 偶々部屋に入って来た、「奥さん」の父親(赤松則良)によつて阻止せられた。「奥  さん」はうつつになった頭の奥で、医者が注射器を置いた、小さな音を聴いた。(百  合の命が助かった音だ)、奥さんは夢のやうな中で思った。>

茉莉の書いたものによると、安楽死を思い立ったのは峰子で、彼女がそのことを担当医に相談したため、担当医は鴎外と志げに安楽死について計った。すると、鴎外・志げもその気になり、医者が安楽死のための注射を準備しているところに志げの実父である大審院判事の荒木がやってきて反対したため、茉莉は死を免れたというのである。

この話を母から聞かされた茉莉は、以後、父方の祖母を恨み、母方の祖父を命の恩人と考えるようになる。

茉莉の妹の杏奴は、もっと衝撃的なことを書いている。

杏奴によれば、 後妻である母志げは、何かというと祖母が、森家の嫡男である於菟を、錦の御旗のように押し立て、森家側の親族も結束して志げに圧迫を加えるため、後妻として一層肩身の狭い思いをしていた。だから、なんとかして立派な、たのもしい男の子を産みたいと念願していたが、茉莉の次の男の子半子(ハンス)は早くに亡くなってしまった。不律はこの後に生まれた男の子だったのである。不律には、凛とした面影があり、抱いていると、赤児ながらたのもしい気がしたと、志げは繰返し杏奴に語っていたという。

この章の筆者田中美代子によれば、杏奴はこれに続けて、「不律が、百日咳にかかり、一医師の提案により、モルヒネの注射によって安楽死させられた」と書いているそうである。これは従来知られていない事実だった。そして不律に続いて莱荊もその注射を受けようとする寸前に、志げの父親がそこに来合わせ、茉莉は危うく一命をとりとめたのだという。

これが事実だったとすると、当然鴎外と志げの心には、「もしもあの時注射をしなかっ
たら、ひょっとすると不律もまた助かったのではないか?」という、拭っても拭い去れない後悔の念が湧き起り、両親の心を苛んだにちがいなかった。峰子の提案は志げのみならず、鴎外にとっても、生涯消えぬ疑惑と遺恨の種となったと杏奴は書き、そして第三者である田中美代子も、「鴎外の内奥にも、ある逆転が起こりつつあったのではなかろうか。彼は、思わず知らず、狂乱する妻と一体化したのではなかろうか」と書いている。

しかし母に対する鴎外の感情が「激変」したのには長期にわたる下地があり、安楽死問題は最後の一撃だったと思われるのだ。鴎外は儒教共同体の一員として、藩校で目上のものには忠、親には孝養を尽くすことを学び、家に帰れば食事時に、母から彼女が新聞で読んだ善行佳話の数々を聞かされていた。そして、それらの教訓は結局、立身出世を目指せという一事に収斂されるのである。

若い頃、鴎外はこうした訓戒を心の中で笑っていたが、気がつけば彼は母の望むとおりに昇進を目指して努力していた。そればかりか、自分が儒教共同体の一員として生きることを文化人類学的な観点から、積極的に肯定するようになっていた。そして、子どもたちに、「俗に支配されなければ、俗に従うことは悪いことではない」などと教えるようになっていたのである。

彼は立場上、エートスの守護者になった。そして、「かのように哲学」などを口にしていたけれども、芯は俗なるものを嫌悪する貴族主義者で、中野重治に言わせれば、「最も優れた民衆の敵」だったのである。その意味で、鴎外は仮面をかぶって生涯を終えた強情の人だった。

だが、彼は最後まで仮面をかぶったままでいることは出来ず、死に際して下記のような有名な遺言を遺している。これを、イタチの最後っぺみたいだと、嘲笑する者も多いが、果たしてそうであろうか。軍人として、作家として、鴎外が耐えてきたものの重さを示す書状ではなかろうか。

死ハ一
 切ヲ打チ切ル重大事件ナリ奈何ナル官憲威
 力ト雖此二反抗スル事ヲ得スト信ス。余ハ
 石見人森林太郎トシテ死セント欲ス宮内省
 陸軍皆縁故アレドモ生死別ルル瞬間アラユ
 ル外形的取扱ヒヲ辞ス森林太郎トシテ死セ
 ントス
 墓ハ森林太郎墓ノ外一字モホル可ラズ書
 ハ中村不折二依託シ宮内省陸軍ノ栄典ハ絶
 対ニ取リヤメヲ請フ手続ハソレゾレアルべ
 シコレ唯一ノ友人ニ云ヒ残スモノニシテ何
 人ノ容喙ヲモ許サス

晩年の母に対して取った鴎外の態度は、冷酷に過ぎるという見方もある。しかし、森家の嫡男として、彼が耐えてきたものの多さを考えると、彼を責める気にはなれないのである。