(左がマイケルの父、右がマイケル)
<奇から妖へ>
老子の基本的な考え方は、「過ぎたるは、及ばざるがごとし」ということにある。やりすぎるくらいなら、むしろ、しない方がいいというのだ。老子は世評を気にして努力しすぎると、人は「奇となり、妖となる」と言っている。
私はマイケル・ジャクソンの音楽を一度も聞いたことがない。が、ワイドショウなどで、彼のスキャンダルについては聞いていたし、TV画面で整形手術によって変形した異様な顔を何度か見てもいた。そして、彼こそは現代における「奇から妖へ」への典型的な人物ではないかと思うようになっていたのだ。
これまでのところ、「奇から妖へ」への典型的人物として思い浮かべていたのは、三島由紀夫だった。彼は人の視聴を集めるのが大好きで、映画に出演したり、ボディービルの成果を誇示するために自己の裸身を公開したり、「楯の会」という私兵組織を作って富士の裾野で分列行進をさせたりして、話題作りに精を出していた。
彼は、三面記事的な話題作りにとどまらず、拠って立つ思想についても話題作りを怠らなかった。欧米最新の芸術理論を始め、中国の陽明学、日本の「葉隠」などを渉猟し、それをすぐに評論や作品の中に吐き出して見せていた。だが、一つの思想を内部に留め置いて静かに熟成させることをしなかったから、それらは単なる彼の知的アクセサリーに終わり、自身にとって何の力にもならなかった。
三島が以上のような程度にとどめていたら、彼はまだ「奇」の段階にあり、世の顰蹙を買うだけで実害はなかった。だが、三島は更に進んで「妖」の段階に突入して無惨な死を遂げるのだ。彼は、市ヶ谷の自衛隊本部に乗り込み、自衛隊員を率いて国会を占拠するという計画を立てた。そして、これに失敗したら切腹する決意を固め、その場合は、自分の首を切り落とすように配下の学生に指示していた。マゾの気味があった三島は、首だけになった自身のイメージに摩訶不思議な喜びを感じていたらしいのだ。
世の耳目を集めるために、奇行に走り、自らを特殊な存在にするということは、自身を世間の常識から切り離してしまうことなのだ。こうなると歯止めがなくなり、突っ走って非人間的な領域に足を踏み込んでしまう。「奇」の段階なら、まだ自己保存の欲求が中枢で働いているから危険はない。だが、「奇」をさらに推し進めようとすると、どこかで自己保存の欲求を切り捨てなければならない。奇から進んで自己破壊の次元に踏み込めば、その時点で人は「妖」になるのだ。
一時期、東京の盛り場に、「がんくろ」と呼ばれる女子高生が出現した。不良女子高生が髪を赤くしたり、地面に届く程の長いスカートを引きずって歩いているうちは、まだ「奇」のレベルにあるが、「がんくろ」、「やまんば」のレベルまで行くと、人々は嫌悪の目で彼女らを眺めるようになる。彼女らがここまで踏み込んでしまうのは、人々から愛されたいという欲求が、無視されるよりは嫌われた方がいいというという自滅行為にまで進んだことを意味する。こういう自滅レベルまで自己を変容させた人間を「妖」というのである。
では、マイケル・ジャクソンの整形手術はどう位置づけられるのだろうか。そのへんをハッキリさせたくなって、マイケルの特集を組んでいる「週刊朝日」を買ってきて読んだ。
週刊朝日の記事によると、マイケルはこれまでに50回に及ぶ美容整形手術を行ってきたそうである。数週間に一度の頻度で手術を行っていた時期もあるという。某新聞の記事によれば、顔を白くするために自身の皮膚をはぎ取り、白人の皮膚を移植したともいわれている。
マイケルが、これほどまでに美容整形にこだわった理由の一つは、父親に似ている自分の顔を変えたかったからだといわれている。彼が父親を憎んでいたことは、遺言状の遺産相続の欄に父親の名前が抜けていることでも分かる。そして、事実、兄弟5人のうちで、父親に一番似ているのはマイケル自身なのである。彼の兄たちは細長い顔をしているのに、末子のマイケルだけが父親と同じ丸顔なのだ。
白人から広く受け入れられた黒人ミュージシャンは、マイケルだけだったという事情もあるかも知れない。これまでに黒人のミュージシャンは数多く出ているが、エルビス・プレスリーのように全世界を制覇した者はいない。ところが、マイケルは黒人でいながらプレスリーと同じように白人の間でも高い人気を得ていた。このことを過剰に意識したマイケルは、自分を受け入れてくれた白人に同化しようとして整形を繰り返したとも考えられるのだ。
マイケルは、同性愛者であり、小児性愛者だったといわれる。にもかかわらず、カモフラージュのためか二度結婚しており、その相手は二人とも白人女性だった。そして、三人の子どもは、いずれも白人から精子の提供を受けて生まれてきているという。
―――週刊朝日は、特集記事を次のような言葉で結んでいる。
< 幼いころからショービジ
ネスの世界に身を置き、ス
ーパースターと呼ばれなが
ら、自らの姿を愛せなかっ
たマイケル。その栄光を得
た代償として、破滅に追い
込まれたのだろうか。>
マイケルが、整形手術を繰り返し、白人の妻に白人の子を産ませたことなどを考え合わせると、彼が愛し得なかったのは、黒人としての自己だったとも思われる。としたら、これ以上の悲劇はない。
人はいかなる人種に生まれてくるか、選ぶことは出来ない。同様に、男か女かという性別を選ぶこともできないし、賢愚美醜の何れかを選ぶことも出来ない。すべてお仕着せ通りの人間、与えられたままの存在、として生きて行くしかないのだ。
山田風太郎は、「無駄な抵抗は、やめなさい」といっている。
地道に生き、平凡な人間として死んで行くものが、人生の勝者であり、奇ともならず、妖ともならず、普通の人としての生涯を貫徹するのが真の勇者なのである。