甘口辛口

「心」の続編パートU(その3)

2009/8/15(土) 午後 5:06

<「心」の続編パートU(その3)>


(Kの手記つづき)
<彼女は、その後、私の部屋にしげしげとやってくるようになった。隣室のSはキチンと大学に通っているけれども、私はあまり登校しなかったから、私が独りで家に残っているときにやってくるのだ。彼女の目的は、明らかだった。Sのことを詳しく知りたいからだった。Sを愛していた彼女は、私の口からSに関する思い出話をくわしく聞きたいのである。

Sのことを話題にしていれば、私の身の上にも触れざるを得なかった。彼女は次第に私の過去にも興味を示し始め、私が養家を離縁された事情から故郷からの送金を断たれた私がどうやって学業を続けたかという裏話にいたるまで根掘り葉掘り尋ねるようになった。

こう書くと、私が話し手で彼女が聞き役のように聞こえるかも知れない。だが、実際はその逆だった。私はお喋りをしにやってくる彼女の話を聞き、時々、相手に助言や忠告を与えていただけだったのだ。だから、彼女にとって私は信頼できる相談相手であり、兄のように気の置けない存在だったのである。

彼女の最大関心事は、Sが彼女を愛してくれているかどうか、ということだった。Sが彼女に好意を持っていることは疑いなかったが、彼が異性としての彼女を愛しているかどうかという点になると私は断定できないでいた。それで私が、「私が代わってSに直接聞いてみようか」と提案すると、そのたびに彼女は首を横に振るのだ。彼女はひどく臆病になっており、Sから拒否の言葉を聞かされることを恐れているのだった。

迷いに迷った末に、彼女は、ある日、私に意外なことを頼んだ。私が彼女を愛しているとSに告白すれば、Sも自分の気持ちを打ち明けるのではないか、もしかすると、それが呼び水になって、Sは彼女に求愛する気になるかも知れない、というのである。

虫のいい依頼だが、別に腹は立たなかった。私の前では彼女が子供のように率直になって夢や希望を語り、私に虫のいい要求をするかと思えば、打ってかわって私に細やかな思いやりを示していたからだった。私もそうだったが、彼女にとっても他者とこんなにうちとけた関係になったのは初めてのことではなかったろうか。

私が「Sが断ったらどうする?」と質問すると、彼女は微笑して、どきっとするような言葉を返してよこした――「あなたに乗り換えるけれど、いいかしら」。

「そんなことを言ってはいけないよ、Sと私の両方を侮辱すことになるからね」
「でも、私はSさんも好きだし、あなたも好きなんだから仕方がないでしょう」

ケロッとした顔で、そんなことを言う彼女を、私は少し驚かしてやろうと思った。

「もしSがあなたを愛しているが、私のためにあなたを譲るといい出したらどうする? 彼は友情に篤い男だから、私のために身を引いてしまうかも知れないよ。それでも、いいのかい?」

彼女は挑むような目で私を見つめ、「いいわ」と答えた。そして、私の心臓を剣で刺し通すような言葉を口にした。

「Sさんが私を好きなのかどうか分からないの。でも、あなたが私を好いていてくれることは、ちゃんと分かっているの」>

Kが奥さんとの関係で悩み始めたのは、それからだった。彼は確かに彼女を愛していたが、それ以上にSとの関係を大事にしていた。それに、手記を読んでみると、彼は一年以上前から、ひそかに自死する計画を立てていたのである。

Kは奥さんの依頼を一時保留にして、自殺するまでの約半年を懊悩に懊悩を重ねている。彼は奥さんを巡って行きつ戻りつする心境を、手記の中に事細かに書き綴っている。ゲーテの「若きウエルテル」を読んだのも、恋に悩むウエルテルに自分の姿を重ねて見たからだった。

Kは奥さんにせがまれて、半年後、Sに向かって奥さんを愛していることを告白する。これが奥さんに頼まれた直後のことだったら、彼の告白は狙い通りの結果をもたらしたかもしれない。S(=「先生」)は、君だけではない、自分も奥さんを愛しているとKに告げるか、直接奥さんに求愛するかしただろう。

だが、半年悩み抜いた後の告白だったから、Kの言葉にも態度にも異様な迫力があった。「先生」はその迫力に押されて恐慌状態に陥り、Kを面罵し、その後で奥さんを通り越してその母親に娘さんを貰いたいと申し込んでしまったのだ。

奥さんの母親は、「先生」の申し出を受け入れた。こうした成り行きは、奥さんにとってもKにとっても、歓迎すべきことだった筈である。Kは手記のなかに、これで思い残すことはない、満足して死んで行けると書いている。そして、最後に、<放っておけば死ぬことが確実なのに、わざわざ自殺をくわだてるとは、人間はよくよく愚かに出来ている>と書き込み、死後に公表されるであろう「先生」宛の遺書を別に書いて自殺したのである。

――「私」は、Kの手記を読み終わって、呆然とした。

一番、気の毒だったのは、Kの告白が奥さんの発案の基づくペテンだったことを知らずに後追い自殺をした「先生」だった。ある意味で、Kと「先生」は奥さんに手玉に取られて死んだのである。

奥さんは「私」に向かって、「先生」の遺書の内容を教えろと迫った。そして、「先生」が妻である自分に遺書を残さないで、「私」に宛てて遺書を残したのは、あまりにもひどい仕打ちだと恨み節を繰り返した。

そしてKが自分を愛していたことなど知らないし、「先生」が自殺した原因など見当もつかないと強調していたのだ。

しかしKに頼んで「先生」への告白をさせた奥さんは、「先生」の思い切った行動は自分がそうさせたも同様だと自覚していたし、「先生」の結婚が内定した後でKが自殺したことについても、Kは自分に失恋したために死んだと考えていたはずだった。にもかかわらず、奥さんは口をぬぐって、「先生」がKの命日に墓参りする理由も分からないし、「先生」が罪ある人間のように寂しい人生を送った理由も分からないと語っている。

「私」は、Kの手記を読んで以来、日毎に高まる奥さんへの不信の念を表情には出さないように気をつけていた。だが、一緒に暮らしている奥さんを何時までも騙すことは不可能だった。

「この頃、あなたは変ね。何か面白くないことでもあるの?」

奥さんは、勤め先に不満があるので「私」が暗い顔をしているのだと考えたらしく、職場が厭になったら勤めを辞めてもいい、あなたが働かなくても食べていけるだけの蓄えを「先生」が残してくれたから、とまで言うようになった。だが、そのうちに奥さんは「私」の疑念が彼女自身に向けられていることに気づくようになった。

庭にぼんやり立っている「私」に、奥さんが縁側から声をかけたのだった。奥さんは振り返った「私」の顔をみてハッとしたのだ。そこには奥さんへの不信の念が明瞭に描き出されていたからだ。その夜、夕食後に奥さんは膝詰め談判で「私」に詰め寄ってきた。

「私に何か足らないことがあったら言って頂戴。これでも私はあなたの母親として一生懸命つとめている積もりよ」
「奥さんのしてくれることに、不満はないですよ」
「そら、また私のことを奥さんなんて呼ぶ。――では、何が不満なのよ」

「私」は、この際Kの手記を持ち出して、一切を明らかに出した方がいいと思った。それで、自室から「ファウスト」を持ち出して、書き込みのあるページを奥さんに示した。

「母さんは、前にKさんが自分を愛していたとは知らなかったといっていた。これはKさんが書き残した手記ですよ。彼は母さんを愛していたし、そのことは母さんも知っていたとハッキリ書いている」
「それは・・・・」と奥さんは、はじめて動揺の色をみせた。
「母さんは、kさんに向かって先生と同じくらい愛していると明言したそうじゃないですか」

(つづく)