甘口辛口

「心」の続編パートU(その4)

2009/8/17(月) 午後 6:44

<「心」の続編パートU(その4)>


「先生」と同じくらいKを愛していたのではないかと追求された奥さんは、やがて弱々しい微笑を浮かべて口を開いた。

「母も私も、ずっと不安な気持ちで生きていたの。女二人だけの暮らしで、収入といえば僅かな軍人恩給しかない。だから、無意識に自分たちを安心させてくれる人を求めていたのね。そんな私たちには、『先生』が頼りがいのある人に見えたのよ。でも、叔父さんに裏切られた主人は警戒心が強かったから、私たちが策略で自分を取り込もう、婿にしようとしていると疑っていたの・・・・」

「先生」の遺書には、確かにそんな風なことを書いた箇所がある。「先生」の猜疑心はまず奥さんの母親に向けられ、やがてそれが奥さんにも向けられたのである。

<・・・・私の煩悶は、奥さんと同じようにお嬢さんも策略
家ではなかろうかという疑問に会って始めて起るのです。二
人が私の背後で打ち合せをした上、万事をやっているのだろ
うと思うと、私は急に苦しくって堪らなくなるのです。

それでいて私は、一方にお嬢さんを固く信じて疑わなかった
のです(「心」)>

結婚前の奥さんは、「先生」を愛しながらも、相手の動揺しがちな性格に不安を抱き続けていた。それに比べると、Kの態度は明快だった。彼は奥さんに好意を持ち、奥さんのために自分の出来ることは何でもする気でいた。そんなKが、奥さんには実の兄のように頼もしく見えたのである。

奥さんは、言葉を続ける――「あの頃の私は、子供みたいだったのよ。私は、Kさんに頼めば、私のために何でもしてくれると思っていたし、Kさんが告白すれば、主人は私の思うように動いてくれると信じ込んでいた。ねんねえ娘の浅はかな計画が、悲劇を引き起こしてしまったのね」

奥さんの話を聞いているうちに、「先生」を哀れに思う「私」の気持ちはますます強くなった。「先生」は誤解していたのである。Kは確かに奥さんを愛していた、だが、心の底で自死を考えていた彼は、奥さんを自分のものにする気など毛頭なかった。彼はこの世での唯一の友である「先生」が、奥さんと結ばれることを心から望んで死んでいったのだ。
だが、「先生」は最後までKの告白が、「ねんねえ娘の浅はかなたくらみ」に発するものであることに気づかなかった。そのため、Kの自殺後の20年余を苦しみ抜き、挙げ句の果てに自殺してしまったのだ。

腕を組んで黙り込んでしまった「私」を心配そうに眺めて、奥さんがためらいがちに声をかけた。

「私みたいな女が、イヤになったんじゃない?」
「いえ」
「でも、昼間、庭で私の方を振り返ったときのあなたの顔ったらなかったわ。私を、さも厭わしげに・・・・二度と見たくないというような目で・・・・」
「奥さん」と言いかけて、「私」は「母さん」と言い直した。世間の目もあるから、「母さん」と呼ぶように奥さんからきつく言われていたのだ、「母さんは、今でも『先生』が何も打ち明けずに死んだことや、思わせぶりな言い方ばかりしていたことを恨んでいる。でもね、一番苦しんでいたのも、一番かわいそうなのも『先生』なんだ。『先生』のことを考えると、僕は・・・・」

奥さんは、下を向いて何かを耐えるように長い睫をふるわせていたが、やがて静かに顔を上げた。

「あなたもKさんと同じね。結局、私なんかより主人のことを想っているんだわ。私はね、あなたが主人のところにやってきて話をするのを見て、あなたがKさんにそくりだと思ったの。あなたもKさんと同じように一本気で、男らしくて、主人の言い方を借りると剛気な気質なのよ。だから、主人のような女性的な人間に惹かれるのよ」

奥さんがそんな見方をしているとは、「私」は少しも知らずにいた。「私」は反論した。
「Kさんは男らしい人だったかも知れないが、僕は違いますよ。それに『先生』が女性的だというのは――」
「あなたは、私を好いているでしょ。いいえ、隠さなくても、いいの。私には分かっているんだから」といって、「私」を正面から見つめた、「あなたが、ご家族の反対や世間の思惑を無視して、私の養子になってくれたのもそのためじゃないの。あなたは将来結婚しないで15歳も年上の私と、死ぬまで添い遂げる積もりでいるんでしょ。 違う?」
「――」
「でも、主人はそうではなかった。結婚する以前にためらっていたし、一緒になってからも自分の心の中の問題にかまけて、私の愛に応えてくれなかったわ。あなたは、主人と私が寝室を別にしていたことを知っているかしら。あの人は、罪の意識から私を数えるほどしか抱いてくれなかったのよ」
「そんな・・・・『先生』は、静が、静がといつも奥さんのことを気遣っていたんだ」
「それは私を弱いものだと思っていたからよ。対等の愛情ではなかったわ」
「しかし・・・・」
「あの人が、思いやりのある優しい人だったことは確かよ。でも私のような女には、それだけでは満足できないの」

話題が夫婦間の内情に触れるものになったので、「私」は沈黙した。そでまで受け身になっていた奥さんは頬を紅潮させ、目をきらきら輝かせて挑むように語り継ぐのだ。だが、ひとしきり憑かれたように話したと思うと、やがて急に羞恥に襲われたように、それまでの言葉を打ち消した。

「私は、またバカなことをしゃべってしまったわね。みんな忘れて頂戴」

その夜は、そのまま各自の部屋に戻って就寝したが、翌朝、顔を合わせると二人の関係が変わっていることに気がついた。「私」は、「先生」を死に追いやった張本人として奥さんに含むところがあり、奥さんは奥さんで、「先生」を神格化している「私」に不満を抱いていた。そうした互いの胸に支えている不満を吐き出し合ったために、二人はそれぞれ本当の気持ちを正直に出せるようになったのだ。

これまで奥さんは「母性愛」を示そうとして「私」に明るく、そして馴れ馴れしく振る舞っていたが、そういうことはなくなった。「私」は自ら設定した母子関係という枠を守り奥さんとは距離を置いて接してきたが、「先生」が生きていた頃と同じように奥さんと話すことができるようになった。「私」はもう、相手を奥さんとも母さんとも呼ばなくなった。一つ家の中に二人だけで暮らしているのだから、改めて相手を他と区別して呼ぶ必要などないのだ。

風呂にはいるとき、「私」が、「石鹸はどこ?」と聞けば、奥さんは、「棚の上」とだけ答える。奥さんが朝「私」を起こすときに、襖を開けて首だけ出し、「早く起きなさいよ」と催促すると、「私」は、「うん、もう少し」と答えるのだ。

二人の変化に近所の人々も目ざとく気づいた。そして噂話に花を咲かせていた。そのことを奥さんは、同じ近所仲間の親しくしている夫人から教えて貰ったのである。

「あの事件で、あなた方は世間から注目される存在になったの。みんなは、お二人の様子を事あれかしと見守っていたのよ。世間じゃ、あなた方はもう夫婦になっているといっているわよ」
「ひどいわ」
「養子縁組というのが悪かったわね。いっそ、最初から夫婦として入籍しておけばよかったんだ」

その夜の食卓で、奥さんは「私」に向かって憤懣をぶっつけた。

「バカにしているわ。あの人ったら、近所の噂を教えてくれると言いながら、私たちが夫婦になっていると決めてかかっているんだから」

「私」は奥さんを慰める。

「世間というものは、そういうものだよ。放って起きなさいよ」

しかし、何日かすると、奥さんは又「私」に訴える。

「今日私が、佃煮屋の前を通ったら、近所のおかみさんたちが三、四人立ち話をしていて、私を見ると話を止めてさっと散っていったわ。あれは、私たちのことを話していたんだわ」
「仕方がないよ。人の口に戸は立てられないというからね」

口をとがらせて訴える奥さんを、「私」はまあまあといってなだめた。

暫くすると、奥さんが笑い出した。「どうかしたしたのか」と「私」が尋ねると、

「思い出したわ。私が子供の頃、死んだ父が兵営から帰ってくると、母が待っていたように隣近所への不満をぶっつけるの。すると、父がまあまあといってなだめるのよ。私たちそれと同じことをしている。やっぱり、あなたを養子にするんじゃなかったわね。あなたと結婚すべきだったわ」

(つづく)