甘口辛口

不良少年から不逞老人へ

2009/9/15(火) 午後 7:19

<不良少年から不逞老人へ>


鶴見俊輔と黒川創の対談集が「不逞老人」という題名で出版された。この本は、先般、NHK教育テレビ(ETV)で放映された鶴見俊輔特集の増補版というべきものである。あのTV番組は正味89分間で終わったけれども、その準備のためになされた対談は、計8時間に及んでおり、その8時間分の対話を本にしたのが、この「不逞老人」だという。

鶴見俊輔は大変おしゃべりな思想家だから、これまでに自身の過去について繰り返し同じことを語っている。この本に載っている話も、すでに彼自身によって語り尽くされた観のある挿話が多いのだが、鶴見は同じ話をその都度変わった角度から、異なる表現で語るので、彼の回顧談は何度聞いても飽きないのだ。たとえば、彼は今回父親について次のように語るのである。

<私は親父と、言い合いとか怒鳴り合いをしたことさえない。親父に対
しては、「こいつは、しようがないやつだ」という思いだけをもち続け
てきた。学校で成績が一番になるなんて、あてにならないやつだという
意識できたからね。
    

・・・・・・私の親父に対する考えは、「こいつは人間として、だめだ
な」というもの。親父と話をしていると、大抵のことについて、説明す
れば「うんうん」と全部分かってしまうんだ。そういう人は、だめなん
だよ。>

彼の父親の鶴見祐輔はその秀才ぶりを見込まれ、後藤新平の娘婿に選ばれた人物だった。戦前は衆議院議員になり、国内のみならずアメリカの政界にも名の知れた有名人だったから、敗戦後、進駐軍が日本を支配するようになったとき、マッカーサーは自分を首相に任命するに違いないと信じ込んでいたのだった。

息子の俊輔は、長い間、こういう父親を憎んだり軽蔑したりしてきた。だが、脳梗塞のため失語症になった晩年の父と親しく接触してみると、彼は最後まで息子を愛しているらしかった。息子はショックを受け、そして、悟るところがあったのである。

<親父とのけんかは、俺の負けだ。愛する者が勝つ>

彼は、母親についても新しい角度から、新しい言い方で説明している。

<私は4才くらいになると、自分はおふくろより知能は勝っているという自負がありましたね。ところがおふくろは、そのことが分からない>

<まず私は、世間に屈しない。私にとって、おふくろが世間の代表なんだから、それに屈しない>

鶴見俊輔は、子供の頃から一種の直感によって人間はすべて平等であること、世俗的な価値や権威はインチキであることを見抜いていた。彼の直感によれば、当時日本で最難関校とされていた第一高等学校でトップになるような父親は下らない駄目人間であり、倫理的に潔癖すぎる母親は救いがたい低脳女なのである。かくて彼は両親の手に負えない不良少年になった。

彼はこの不良少年の魂を持ったままで大人になり、「ベトナムに平和連合」の中心人物として活躍し、「思想の科学」主催者として在野の思想家を多く育てた。鶴見俊輔は人と接触したときも、本を読んだときにも、人間の原質を発揮したような人物を発掘する才があり、何人もの「真実人間」を世に紹介している。たとえば、皇太子狙撃を計画し獄中で自殺した金子文子なども、その一人だ。

「不逞老人」のなかでも、彼はジョン万次郎の事例を取り上げている。ジョン万次郎は、漂流しているところをアメリカの捕鯨船に救助された土佐の漁民である。少し長くなるけれどもジョン万次郎について語る鶴見俊輔の言葉を引用しよう。

<ジョン万次郎は、もともとは土佐の漁師で、遭難した漂流民だった。救助
された捕鯨船のホイットフィールドという船長に気に入られ、船長一家と
行動を共にするなかで、船長に教会へ連れて行かれた。

教会は、そのとき、有色人種を入れることはできないと断った。

すると船長は、それでは自分たち一家もこの教会から離脱すると言って、
また別の教会まで行くんです。二番目の教会でも断られる。三番日の教会
でやっと入れてもらえます。

万次郎は、そのようにして、この一家が歩いてくれたということが、ち
やんと記憶に残っているんです。だから日本に帰るにあたって、船長に
宛てて書いた最後の手紙の書き出しは

Dear friend

なんです。船長は、自分にとっては命の恩人ではあるけれど、へりくだって
自分が接することは喜ばないことを分かっているからなんだ。>

もうひとつ、「不逞老人」の中から、鶴見俊輔らしい挿話を引用する。まず、対談相手の黒川創が次のように質問するのだ。

「 不幸にして敵と味方に分かれて戦争に投げ込まれてしまったと
 きに、その敵に対して敬意をもつことが、人間として最低の義務だ
 と思う、と鶴見さんは、児童文学者・乙骨淑子(児童文学作家、
1929−1980)の『ぴいちゃあしゃん』という作品に触れて書
 いていらっしゃいます」

黒川は、鶴見俊輔が戦争中に南方の戦地で軍属として働いていたことを知っていたから、そんな考え方をしていて、よく戦地にいられたものだなという意味で質問したのだ。それに対する俊輔の返答は次のようなものだった。

<日本軍は阿片商売をやっていたから、阿片が手に入るん
です。阿片を煙草に混ぜて吸っている同僚が同じ部屋にいた。彼らが遊
びに行った隙に、私はその阿片を盗んで、自分で小さなガラス瓶に入れ
て、常にもつようにしていた。

いよいよ自分が敵を殺さざるを得ない状
況に陥ったら、自分一人で便所に入って錠を閉めて、阿片を飲んで自殺
しょぅと思っていたんだ。ところが、私には、死に至る適量が分からな
い。昔、森鴎外の『諸国物語』に、適量を超えて飲んだことから、あと
で吐いてしまって目が覚めるという小説があったのを思い出して、怯え
るところもあった。だけど、しようがない、とにかく自殺だな、と思っ
ていました。>

戦場で敵を殺さなければならないような羽目になったら、いさぎよく自殺する──これが鶴見俊輔の覚悟だった。こうした覚悟を持って生きてきたから、往年の不良少年は年老いても世俗に妥協せず、不逞老人になったのである。

まわりから可愛がられるおじいさん、おばあさんになるのも老人の生き方だが、不逞老人になって世を睥睨して生きるという存在仕方もあるのである。私はエピクロスの徒であって、そんな元気はないけれども、鶴見俊輔のような不逞な老人にひそかに拍手を送っているのである。