甘口辛口

坂口安吾の謎(その2)

2009/9/24(木) 午前 9:20

<坂口安吾の謎(その2)>


安吾の作品で最初に読んだのは、「白痴」だった。とにかく、その読後感は圧倒的で、他の作家が発表している作品など、すべてかすんで見えるほどだった。この作品の印象は、誰にとっても強烈だったらしく、当時の花形文芸評論家だった平野謙も、「白痴」を「戦後第一等の文学作品たることに疑いない」と評している。

しかし、後になって「白痴」を読み返してみると、作品は驚くほど単純に出来ているのである。

主人公伊沢は大学卒業後新聞記者になり、つづいて文化映画の演出家になった27才の青年で、これが世間の常識もモラルも存在しない猥雑を極めた陋巷に家を借りて、映画会社に通うことになるのだ。

隣りはキチガイの家だった。

<気違いは三十前後で、母親があり、二十五、六の女房があった。母親だけは正気の人間の部類に属している筈だという話であったが、強度のヒステリイで、配給に不服があるとハダシで町会へ乗込んでくる町内唯一の女傑であり、気違いの女房は白痴であった(「白痴」)>

ある幸多き年のこと、気違い男が白装束に身をかため四国遍路に旅立ったが、そのとき四国のどこかで白痴の女と意気投合し、遍路みやげに女房をつれて戻ってきたのだった。

気違いは風采堂々たる好男子であり、度の強い近眼鏡をかけ、常に万巻の読書に疲れたような憂わしげな顔をしていた。白痴の女房はこれも名門の娘のような気品を備え、稀に見るほど美しい容貌をしている。だから、二人並べて眺めただけでは、美男美女、それも相当教養深遠な好一対にしか見えない。

伊沢が隣家の三人を興味をもって眺めているうちに、奇妙な事件が起きるのである。

冬の寒い夜、伊沢が会社から遅くに帰宅してみると、家の中の様子が何となくおかしい。そこで彼が押し入れの戸を開けたら、積み重ねた布団の横に白痴の女が隠れていたのだ。女のたどたどしい説明を聞いてみると、彼女は姑から叱られて家を逃げ出し、伊沢の借家に窓から忍び込んだのであった。

伊沢は、さしあたり今夜は女をここに寝かすことにして布団を敷いてやったが、ものの一、二分もすると女は布団を抜け出して部屋の片隅にうずくまり、寒さのためにぶるぶる震えている。

「どうしたの、何もしないから安心して眠りなさい」と言ってやると直ぐ布団に入る。が、しばらくするとまた布団から抜け出て部屋の隅で震えているのだ。三度目になると、女は押入れにはいり、中から戸を閉めてしまった。伊沢が自分のことをそれほど信用しないのかと、いささか感情を害していると、女は意外なことを言い出したのである。

女は、「私は帰りたい、ここに来なければよかった」とぶつぶつ呟いてから、「私はあなたに嫌われていますもの」と言ったのだ。事態は伊沢の考えていたのとは逆だった。女は伊沢に襲われることを心配していたのではなく、伊沢の愛情を期待して忍んできたのに彼が自分に手を出そうとしないので失望していたのである。

伊沢は女を布団に寝かせ、相手の頭を撫でながら、人間の愛情は肉体関係によって表現されるだけではないと、言い聞かせる。すると、女は伊沢の言葉を何も理解しないまま、幼児のようにじっとしている。

伊沢は次の日から女を借家の押入れに隠して、出勤するようになった。

女は伊沢と関係が出来てからは、ただ伊沢を待ち設けているだけの存在に変わっていた。二人の間に、会話は全く成立せず、性交渉をしているときにだけ、ようやく人間としての繋がりが生じるのである。

そんな日々を過ごしているうちに、四月十五日の東京大空襲の夜がやってくるのだ。

借家の周辺に焼夷弾が雨霰と落ちてくるのを見て、伊沢はこれが最後の夜になるかもしれないと覚悟をきめ、借家を捨てて脱出する。彼が女の肩を抱き、水に浸した布団をかぶって逃げ始めた頃には、まわりはすっかり火の海になっていた。

伊沢が、「死ぬときは二人一緒だよ。俺から離れるな」と命じると、女はごくんと頷いた。

<その領きは稚拙であったが、伊沢は感動のために狂いそうになるのであった。ああ、長い長い幾たびかの恐怖の時間、夜昼の爆撃の下に於て、女が表した始めての意志であり、ただ一度の答えであった。そのいじらしさに伊沢は逆上しそうであった。今こそ人間を抱きしめており、その抱きしめている人間に、無限の誇りをもつのであった。二人は猛火をくぐって走った(「白痴」)>

伊沢と女は、地獄の劫火を思わせる火の海のなかを走って、雑木林にたどり着き、そこで二人の道行きはおわるのである。伊沢は、疲労のあまりその場に寝込んでしまった女を眺め、夜が明けたら女と暮らす本格的なねぐらを探さなければならないなと考える。「白痴」はそこで終わっているのである。

──話は実に簡単に出来ていて、白痴の女が主人公の家に転がり込んで来たこと、その女を連れて主人公が空襲の劫火を逃れて雑木林にたどり着いたこと、この二つのエピソードで構成されているに過ぎない。伊沢が女と結ばれるポルノ的な場面も完全に省略されているから、小説としての面白みは皆無に近いのだ。

にもかかわらず、この作品は読者に圧倒的な衝撃をもたらすのである。その理由は、白痴の美女を押入れに隠して暮らす独身男というシチュエーションの異常さによるかもしれないし、女を連れて火の海の中を逃げ惑う場面描写の卓抜さによるかもしれなかったが、やはり安吾の人間を見る目の確かさによるのである。

次に読んだ安吾の作品は、「堕落論」と「日本文化私観」で、この二つから受けた感銘は、「白痴」の場合よりもずっと大きかった。「堕落論」では、特攻隊員が戦後闇屋になったり、夫を戦場で失った「靖国の妻」が新たに恋人を持ったりするすることが堕落だというならば、大いに堕落すべきだと安吾は強調していた。そして「日本文化私観」では、法隆寺などの文化遺産の保存に血道を上げる代わりに、新時代の美に注目すべきだと説いている。

彼は、愛国者・貞女というような虚名にたぶらかされて、人間本来の喜びや欲求を放棄することの愚かしさをズバリと指摘する。そして法隆寺や古美術品など実用に適しないものに恋々とする美意識を捨てて、現代の工業製品の中に宿る美に開眼せよと勧告する。

坂口安吾は、作家には珍しい徹底した合理主義者であり、機能主義者であり、実質主義者だった。人間を見る場合にも、社会通念に縛られることなく、その内実を、──人間の実質を見るのである。この姿勢は現代人に対してだけでなく、歴史上の人物を見る場合にも適用される。安吾史談がユニークで痛快なのは、彼が通説に依らず、徹底した合理主義者の目で歴史上の人物を見ているところから生まれている。

こういう安吾がどうして薬物依存に落ち込んだのだろうか。そして、どうしてファルスと銘打つ悪ふざけの駄作を延々と書き続けたのだろうか。

安吾の謎は、そればかりではない。彼は、なぜ女流作家矢田津世子との不毛の恋愛にあれほど身を焦がしたのだろうか。

坂口安吾全集を読んでいると、次々に疑問が浮かんでくるのである。