(伊那谷の秋)
<坂口安吾の謎(その3)>
数ある安吾の傑作の中で、一番好感の持てる作品は「風と光と二十の私と」ではなかろうか。これは題名の通り、20才の彼自身を中心にした自伝的な作品である。
安吾は旧制中学校時代に二回落第しているため、仲間よりも二年遅れ20才になってようやく中学校を卒業している。中学を卒業した彼は直ぐに大学には進まず、世田ヶ谷の下北沢にある小学校の教師になった。戦前は、中等学校を卒業すれば、「代用教員」という資格で教壇に立つことが出来たのである。従って、この作品は安吾の代用教員時代を扱った自伝小説ということになる。
そのころ、下北沢は狸や狐が出てきそうな辺鄙なところだった。安吾の勤務した学校は教室が三つしかない分校で、彼はここで五年生七十名の生徒を教えることになった。七十名のうち二十人はカタカナで自分の名前が書けるだけで、ほかには何も出来ない劣等生だった。授業中に軍歌を歌いながら兵隊が通過すると、子供たちはそれを見物するために教室の窓から飛び降りて外に出て行くのだ。安吾はそうした生徒たちを、笑って見ていた。
<本当に可愛いい子供は悪い子供の中にいる。子供はみんな可愛いいものだが、本当の美しい魂は悪い子供がもっているので、あたたかい思いや郷愁をもっている。こういう子供に無理に頭の痛くなる勉強を強いることはないので、その温い心や郷愁の念を心棒に強く生きさせるような性格を育ててやる方がいい。私はそういう主義で、彼等が仮名も書けないことは意にしなかった(「風と光と二十の私と」)>
安吾は分校に通うために、学校の近くの下宿屋に移った。下宿の娘は二十四五才の二十貫もありそうな大女で、これが猛烈に安吾に惚れ込み、彼の部屋へ遊びにきて、まるでもうウワずって、とりのぼせて呂律が廻らなくなり、顔の造作がくずれて目尻がとろけるようになる。そして、そわそわして、落付なく喋るかと思うと、沈黙したり、ニヤニヤ笑ったりする。彼女は、彼の部屋にだけ自分で御飯をたいて、いつもあたたかいのを持って来た。
安吾は這々の体で下宿屋を逃げ出して、分校主任の家の二階に引っ越すのである。
分校主任は六十ぐらいだったが、精力絶倫の男だった。四尺六寸という畸形的な背の低さにもかかわらず、横にひろがった隆々たる筋骨を持ち、鼻髭で隠しているがミックチであった。非常な癇癪もちで、やたらにまわりの者に当りちらす。小使だの生徒には特別あたりちらすが、学務委員だの村の有力者にはお世辞たらたらで、癇癪を起すと授業を一年生受持の老人に押しつけて、有力者の家へ茶のみ話に行ってしまう。腹が立つと女房をブン殴ったり蹴とばしたりして暴れ回る。
当時の安吾は全くの超然居士で、悲喜哀歓を超越して、行雲流水のごとく生きようとしていたから、分校主任が何と言おうと平然としていた。平然としているといえば、一年生担当の老教師も同じだった。彼は娘を世田ヶ谷市内の小学校の教師にしていた。娘は結婚したがっている。だが、老教師はもう少し稼いで家に金を入れてからでないとダメだと言って、結婚を許してやらない。親娘はこの問題で始終もめ続けているから、彼は学校に来ても毎日その話しをするのだ。
「イヤハヤ、色気づいてウズウズしておりますよ」といって、老人はアッハッハと笑うのである。
生徒たちも、問題を抱え込んでいた。「風と光と二十の私と」という作品は、個々の生徒について語るときに最も精彩を放ち、彼らの問題の本質を解き明かすときに最も明敏な冴えを見せる。
牛乳屋の息子の田中という生徒は、朝晩自分で乳を搾って配達していた。
彼は一年落第したそうで、年は外の子供より一つ多い。腕っぶしが強く外の子供をいじめるというので、安吾は着任早々、分教場の主任から特にその子供のことを注意されている。だが、田中は非常にいい子供だった。安吾が乳をしぼるところを見せてくれと云って遊びに行ったら、彼は躍りあがるように喜んで安吾を歓迎した。田中は、確かに時々人をいじめたが、ドブ掃除だの物の運搬だの力仕事というと自分で引受けて、黙々と一人でやりとげてしまう。
「先生、オレは字は書けないから叱らないでよ。その代り、力仕事はなんでもするからね」
と可愛いいことを云う。こんな可愛いい子がどうして札つきの悪童だと言われるのだろう。第一、字が書けないということは咎むべきにとではないのである。要は魂の問題だ。落第させるなどとは論外だと安吾は思った。
男の子の問題より、女生徒の抱えている問題はもっと深刻だった。たとえば、鈴木という女生徒がいた。
彼女の姉は実の父と夫婦の関係を結んでいるという隠れもない話であった。そういう家自体の罪悪の暗さは、この子の性格の上にも陰鬱な影を落しており、友達と話をしていることすらめったになく、浮々と遊んでいることなどは全くない。いつも片隅にしょんぼりしており、話しかけるとかすかに笑うだけなのである。この子からは肉体が感じられなかった。
石津という娘と、山田という娘がいた。安吾はこの二人は生理的にもう女ではないのだろうかと時々疑ったものだが、石津の方は色っぽくて私に話しかける時などは媚びるような色気があった。が、そのくせ他の女生徒にくらべると、嫉妬心だの意地の悪さなどは一番すくなく、やがて弄ばれることになるふくよかな肉体を持っているだけの少女だった。これも余り友達などはない方で、女の子にありがちな、親友と徒党的な垣をつくるようなことが性格的に稀薄なようだった。そのくせ明るくて、いつも笑ってポカンと口をあけて何かを眺めているような顔になる。
山田の方は豆腐屋の子で、然し豆腐屋の実子ではなく、女房の連れ子なのであった。妹と弟が豆腐屋の実子なのだ。この娘はカナで名前だけしか書けないという劣等生の一人で、女の子の中で最も腕力が強い。男の子と対等で喧嘩をして、これに勝つ男の子はすくなかった。彼女は身体も大きかったが、いつも口をキッと結んで、顔付はむしろ利巧そうに見えた。
彼女には、明るさがなく、友達もなかった。野性に満ちているが、色気がない。今は、早熟のごとくだが、大人になれば仲間の女たちに追い抜かれ、一人取り残されて同性に敗北するのではないかと思われた。
坂口安吾は、石津を眺めているうちに彼女を妻にしようかと考えることがあった。
<私は先生をやめるとき、この娘を女中に譲り受けて連れて行こうかと思った。そうして、やがて自然の結果が二人の肉体を結びつけたら、結婚してもいいと思った。まったくこれは奇妙な妄想であった。私は今でも白痴的な女に妙に惹かれるのだが、これがその現実に於けるはじまりで、私は恋情とか、胸の火だとか、そういうものは自覚せず、極めて冷静に、一人の少女とやがて結婚してもいいと考え耽っていたのである(「風と光と二十の私と」)>
安吾は代用教員一年ののちに、仏教系の大学に入るために教職を辞めている。教員をしている一年間を、彼は太陽と光と風を感じ続けていたのである。
<私はそのころ太陽というものに生命を感じていた。私はふりそそぐ陽射しの中に無数の光りかがやく泡、エーテルの波を見ることができたものだ。私は青空と光を眺めるだけで、もう幸福であった。麦畑を渡る風と光の香気の中で、私は至高の歓喜を感じていた。
・・・・あの頃の私はまったく自然というものの感触におぼれ、太陽の賛歌のようなものが常に魂から唄われ流れ出ていた(「風と光と二十の私と」)>
太宰治をはじめとして、後年作家となる同時代の若者たちと比較して、安吾の青春がこんなにも明るく健康だったとは全くの話、驚くべきことなのである。
彼は卑俗な教員社会に籍を置き、問題を抱えた教え子たちと接しながらも、人間に絶望していない。同時代の作家志望者たちが、世俗を嫌悪し人間の愚かしさに絶望しているとき、安吾は現実の人間を信頼し、その健全な常識性に脱帽していたのだ。彼の前で太陽は輝き、畑を渡る風は光と香気を運んで来たのである。
しかし彼はまわりの常識人たちと同じ人生を歩む積もりは毛頭なかった。彼は自分に向かって絶えず、「満足してはいけない、苦しまなければならぬ。人間の尊さは自分を苦しめるところにある」と囁き続けていた。安吾には、木や丘や自然も彼に、「不幸にならなければいけないぜ。うんと不幸に、ね。そして苦しむのだ。不幸と苦しみが人間の魂のふるさとなのだから」と語りかけているように思われた。
そういう安吾の前には、必ずマドンナが現れるのである。
安吾が辞令をもらって始めて本校を訪ねたとき、分校まで彼を案内してくれた女教師がいた。これが驚くべき美しい女性だったのである。こんな美しい女の人はそのときまで彼は見たことがなかったので、「目がさめる」という美しさは本当に存在するものだと思った。この人は二十七才で、生涯独身で暮す考えだということを人づてに聞いていたが、何かしっかりした信念があるのか、非常に高貴で、慎しみ深く、親切で、女先生にありがちな中性タイプと違い、女らしい人だった。安吾は、その後数年間、この人の面影を高貴なものとして心の底でだきしめ続けるのである。