(NHKテレビより:岡部伊都子、母と共に)
<岡部伊都子の抵抗精神(その2)>
岡部が、生涯、社会的弱者にいたわりの目を向け続けたことに対して、保守右派から「庶民に媚びを売るものだ」という罵声が浴びせられた。岡部伊都子は、「私は高みから弱いものを哀れんでいるのではない。私自身が庶民であり、社会的弱者なのだ」と応じている。「私には学歴はないけれど、病歴がある」といっているように、病気続きだった彼女は、父の倒産後、経済的にも苦難の道を歩んできたのだ。
彼女が差別に抗議し、弱者のために戦い続けたのには、父親の圧制に苦しむ母の日常を見てきたことも大きく影響している。いや、この方が動機としては大きかったかもしれない。
父は何か面白くないことがあると、それを母の責任にして家族全員が顔を揃えた食事中に叱ることを習慣にしていた。伊都子の結核は家族内感染の結果だったらしく、母も兄もみな結核で喀血しているのだが、父は伊都子が結核のため女学校二年生で退学したのも母親の責任だと責め立てるのだ。それだけでなく、兄や姉が外で何か事故を起こしたりすると、それも母親の責任にしてしまうのである。
伊都子は女学校を退学してから、転地療養を繰り返し、最後には結核療養所に入所しているが、彼女は家を離れることを喜んでいたと自伝で語っている。
<でも、わたしは、いえを離れたらほっとしましたね。おとうさんとおかあちゃんのことを見ないですむからです。
おとうさんが、おかあちゃんをいじめなはるのや。おまえの育て方が悪いさかい、伊都子が弱うなった。お姉ちゃんやお兄ちゃんのことかて、昔は晩ごはんいうと、ひとつのちゃぶだいで、みんなが揃うて食べたもんやけど、一通り母に説教するわけ。こうや、こうや、これはみんなおまえが悪い、おまえの責任や、そうすると、おかあちゃんは泣きよる。口惜しかったのやろな。
それで、母は朝晩、仏壇に向かってお経さんを唱えていました。(「遺言のつもりで」)>
末っ子だった伊都子は、まだ幼子だった頃、母親が仏壇の前に座って読経を始めると、その後ろにちょこんと座って母を見ていた。母の読経が時々、ふっと途切れることがある。母は泣いているのだった。すると、伊都子は幼いながらに母の気持ちが分かり、相手の背中を後ろから抱くようにした。
「おかあちゃん、私がここにいてまっせ」
という気持ちだった。
そのうちに伊都子は自殺を考えるようになる。小学校5,6年の頃だった。
<さっきも言うたように、しよつちゅう、おかあちゃんは、おとうさんに泣かされていました。
そこでわたしは、自殺しようと思うたんです。からだが弱いし、おとうさんがおかあちゃんをいじめはるの見るのは、いややし、死んでしもたら、ちっとはおとうさんが、おかあちゃんをだいじにしてくれはるんとちゃうかいなぁと思うた。わたしがいないほぅが、おかあちゃんも気が楽になる、心配がのうなって、いいのとちゃうのかなと思うたんです(「遺言のつもりで」)>
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いよいよ死ぬ決心がついたので、伊都子は別れのしるしとして家族にコロッケを作ってやることにした。母は、小学生の娘が台所で一生懸命コロッケを作っているのを見て、何かを感じたらしかった。
「ちょっと、おいなはれ」
母は伊都子を別室に連れて行って、膝つき合わせて座り、娘の両手をしっかり握りしめた。伊都子は身動き出来なかった。
「あんた、死ぬ気とちがいまっか」と尋ねてから、母は言った、「あのなあ、あんたがちょっとでもおかあちゃんを好きやったら、死なんといて。おかあちゃんより先に死んだら、あきまへんで。もし、あんたに死なれたら、おかあちゃんがおとうさんに責められて、おかあちゃんも死なんならんようになる」
ああ、そうだった、と伊都子は思った。言われてみれば、その通りなのである。彼女が自殺でもすれば、父は火がついたように母を責め立てて、母は生きる瀬がなくなくなってしまうのだ。伊都子は泣き出した。
「おかあちゃん、なんで生まれてきたんやろか、なんで生きていかんならんの」
伊都子が泣きながら訴えると、母も涙を流して一緒に泣いてくれた。
「そうか、あんたもそない思うか、おかあちゃんもときどき、そない思うよ」
父は、暴君だった。岡部伊都子の自伝にはそんな男の生き様がありのままに描かれている。少し長くなるけれども、「遺言のつもりで」からその部分を引用してみる。
<その頃は、お夕飯はみんなでいっしょでした。ほんまに質素な生活でしたけど、おとうさんだけは贅沢。ごちそうがいっぱい並ぶんです。お酒のおつまみやら、なにやら、お刺身とか。いろいろ並ぶわけ。
おやじは、みんなをこきおろしながら、おかあちゃんを泣かせながら、それを食べている。
「おまえは、階段をあがる音がやかましい」
「ふすまのしめる音が、きついやないか」
「おまえは、履物の始末が悪い」
とか言われた。おやじは、ちゃんと見ていやはるんですな。そうして、おかあちゃんに「おまえの教育が悪いさかいや」と言うんです。
誰も、おやじに反抗でけしまへん。反抗したら、おかあちゃんに返ってくるからね。その時、母は何とか答えたらええのに、べそっと泣くんです。
それを見て父は、「もうこんなうちにいられるか」というような顔をして、ごはんが済んだら、二枚重ねのベベに着替えて、きゅきゅっと袖を重ね、自足袋に履き替えて出ていきますのや。毎晩のことでしたな(「遺言のつもりで」)>
父が毎晩出かけるのは、囲っている女のところだった。母は、「どんなに貧しいてもかまへん。おとうさんが他の女の人に心移さんといてくれはったらええのになあ」と言っていた。
伊都子の自伝を読んでいて、もう一つ印象に残ったのは、8月15日、敗戦の日の光景に関する記述だった。
その日の夕方、伊都子は従姉妹と海岸に出かけた。戦争が終わるまで、日々の暮らしに追われて疲れ果てていたから、誰も浜に行って海を見るようなものはなかったのだ。だが、降伏を告げる天皇の放送があって、日本国内のすべての機関・組織は活動を停止してしまった。学校も工場も休みになり、それらから解き放たれた人々は帰宅したものの何をしたらいいのか分からない。それで、みんな虚脱したようにぼんやりしていたのである。
<従姉妹といっしょに浜へ行ってみたら、まあ、その防波堤の上にずら−つと、人が腰掛けて海を見ていますのや。そして、いまでも忘れられないのは、だ−れもものを言わんこちゃ。し−んし−んとしていました。ぎょうさんの人が来て座っていますのに、だま−つて海ばっかり見ている。し−んし−ん・・・・・。
・・・・戦争はすんだ。ぽか−んとしていて、ふっと上を向いたら、満月がでていました。夕方の白い月でした、八月十五日の。忘れられませんな(「遺言のつもりで」)>。
岡部伊都子は敗戦以前の日本が、その家庭内の私生活において、そして戦時下の公的生活において、いかに人間性を無視するひどいものだったか見てきたのである。彼女が平和を願い、差別を憎むのは、体験に根ざすものだった。それ故に、彼女は粘り強く戦い続けることが出来たのだ。