年長の妻を看取る(その2)
著者垣添の妻昭子のがんが発見されたのは、結婚生活40年をへた2000年のことだった。がんは、最初、ごく小さなものだったから、国立がんセンター病院で肺の一部を切除し、それですっかり直ったものと思われていた。昭子も安心しきっていた。専門家の垣添が、もう大丈夫だと太鼓判を押したからだ。
ところが数年すると、昭子の声がかすれてきた。コンピューター断層撮影法で調べてみると,リンパ節が腫れ、声帯を支配する神経に麻痺が現れていることが分かった。甲状腺がんになっていたのである。
すぐさま甲状腺の大部分とリンパ節を切除する。国立がんセンター総長である夫を全面的に信頼している昭子は、このときまでは、「あなたが治してくれるんでしょう?」と言っていたけれども、発病から6年後に右肺にがんが見つかってからは、彼女は何も言わないようになった。前回は左肺だったがんが、今度は、右肺に転移していたのだ。
昭子のがんは、考えられる限りの治療を施したにもかかわらず、ついに最終局面を迎える。PET検査によって、多発性脳転移、肝転移、肺転移、副腎転移が確認されたのである。それからは、昭子の病気はつるべ落としのように悪化していった。垣添も覚悟を決めざるを得なかった。
垣添はがんセンター総長の地位を定年で退職して以後、名誉総長として毎日センターに通っていた。同じセンター内の病棟に昭子が入院していたから、彼は自室から妻の病室に、朝・昼・晩と通い続けた。この一風変わった夫妻の日常に関する著者の記述を、少し長くなるけれども引用してみよう。
<朝は八時ごろに朝刊と果物など、その時々においしそうな軽い食べものを持っていく。
「眠れたか? 痛くないか?」
窓のスクリーンを開け、義歯をつけてやり、朝食の世話をする。そのあと私は外の会議などに出かけ、また戻ってきて昼食をいっしょにとる。
妻が食べきれなかった病院の食事を、私が平らげることもあった。妻は口内炎ができたり、食欲がなかったりして病院食を食べられないこともあったので、そんなときは、銀座のデパートや専門店を歩きまわり、何とか食べられそうなものを探し求めた。
そうでなくても、入院が長くなると、病院の食事だけでは飽き足らなくなるものだ。私はよく二人で行ったお寿司屋さんに頼んで、握りを折詰にしてもらった。
弟の妻が、北陸の越前ガニをゆでて持ってきてくれたこともあった。毎年、家に届けてくれていたのだが、今年は病室で食べることになった。家内はベッドに起き上がり、夢中になってカニの身をほぐしている。こうした細々とした手先の作業が、妻は大好きだった。紅白の身が山になると、得意そうに私に見せてから、バクリと一気に口に運んでいた。
うまいものがあれば、酒がほしくなる。上等の吟醸酒の四合瓶を病室に持ち込んだ。酒の味は格別だった。それは妻も同じだった。量は少しでいい。私はつまみを前に、差しつ差されつ……。二人で飲む(「妻を看取る日」)>
垣添はその頃のことを振り返って、病院で妻と過ごした日々は、自分の人生の中で最も充実した、密度の濃い時間だったといっている。それは妻と二人で分かち合った最後の輝ける日々だった。
年末が近づくと、昭子はしきりに家に帰りたがった。死期を悟っていた彼女は、自宅で最後を迎えたいと考え始めたのだ。垣添は何とか妻の願いを叶えてやろうと思った。彼が在宅用の医療機器や酸素ボンベ、医薬品などと一緒に、二ヶ月ぶりに妻を自宅に連れ戻したのは12月28日のことだった。
垣添は、妻を眺めて自分の家に帰るということは、そんなにも嬉しいものなのだろうかと思った。自宅に着いた妻の目には、はっきりと生気がよみがえっていたのだ。病院ではベッド上で身を起こすことさえ難しかった妻が、コタツに座り、テレビを眺めて穏やかな笑みを浮かべている。家具から食器にいたるまで、慣れ親しんだものに囲まれて、安心しきっているようだった。
だが、翌日から、昭子の容態が急変した。彼はもう、どうすることも出来なかった。そして、帰宅から四日目の大晦日の日に、昭子の寿命は尽きた。垣添は泣いた。声を上げ、とめどなく流れる涙を拭おうともしなかった。
生前の昭子は、ことあるごとにこう言っていた。
「くれぐれも私の葬儀はしないでちょうだいね」
彼女がこういうのは、夫の社会的立場によって、先に逝った妻の葬儀がやたらと盛大に行われる例をいくつも見てきたからだった。自分とは面識がないのに、夫の仕事上の知人だというだけで葬儀に参列してもらうのは申し訳ないと昭子ははいやがっていたのだ。
また,何よりも夫に煩わしい思いをさせたくなかったのである。
葬儀社の手配はがんセンターの庶務課長がしてくれた。垣添は職場では妻の病気のことは黙っていたが、立場上、課長は一連の経緯を知っていた。もし今回の外泊中に妻が亡くなった場合はどうすればいいかということも事前に相談してあった。
三十一日の夜になって葬儀社の係が来て、事務的な手続きを済ませた。
棺や骨壷は価格によってランクがあり、カタログから選ぶようになっている。垣添は、どれも、シンプルなものを選んだ。正月三ケ日は葬儀場が休みなので、火葬は翌年一月四日に決まった。
すべてが片付き、家には垣添一人が残された。
気が付くと、今年ももう終わろうとしている。垣添には、この数時間に起きたことが現実とは思えなかった。
再びしんと静まりかえった家の中で、彼はあらためて妻の死に顔を眺めた。再び涙があふれ出し、今度はいつまでたっても止まることがなかった。彼は一人で妻を看取り、一人で送ろうと決心していた。しかし、この決断は、後に親戚からいろいろと非難されるところとなった。
一夜明けた元旦に、葬儀社から棺が届いた。正月三が日は誰にも連絡せず,人が来ても会おうとしなかった。垣添は三日間、ただひたすら棺の中の妻の顔を眺めて過ごした。
しかし、本当の悲しみは妻を墓に葬った後にやってきたのである。
(つづく)