甘口辛口

毛沢東の闇

2010/3/18(木) 午後 10:00

 (毛沢東と林彪)

毛沢東の闇


先日、NHKのBS特集番組で、中国の文化大革命を3夜連続で取り上げていた。題名を正確に記せば、「民衆が語る中国激動の時代〜文化大革命」というのだが、これをずっと見ていて、私は忘れていた宿題を思い出したような気持ちになったのだった。

なぜかと言えば、2、3年前に文化大革命を挟む前後の時代に興味を持ち、関係の本を何冊か買い集めたことがあるからだ。私が知りたかったのは、毛沢東という複雑な人間の心の闇についてであり、そして林彪が企てたというクーデターの内容についてだった。その他、この時期に聡明沈着な周恩来がいかに行動していたか、憎嫉の念に凝り固まった江青がどんな風に暗躍したか知りたかったのである。

だが、手始めに出版されたばかりの中国現代史関連の本を購入して半分ほど読んだところで、探索作業をストップしてしまった。文中に「中央委員会報告」だの、「党中央書記処、総書記」だの馴染みのない文字がぞろぞろ出てきて、甚だ読みにくかったからだ。実のところ、こんな具合に中途でストップしたまま、薄暗い頭の中で仮死状態になっている課題が、ほかにも少なくとも1ダースはあるのである。

そんな課題が、自分の内部で仮死状態から目覚めるのは、今回のようにテレビを見ている場合が多い。だから、テレビには、その意味でも大いに感謝しているのである。

――さて、毛沢東の話になるが、戦後の半年くらいまでは、彼の名前はあまり知られていなかった。戦後最初の総選挙で当選した議員の中には、質問演説の中で毛のことを「けざわ・ひがし」と言うものがいたくらいだ。

しかし、中国の内戦が激化し、中国共産党が国民党を圧倒する勢いを示すようになると、「長征」のリーダーとしての毛沢東の名前が日本でも広く知られるようになり、エドガー・スノーの「中国の赤い星」がベストセラーになるに及んで、彼は「進歩的人間」の間で人気絶頂のヒーローに昇格したのである。

何しろ、この長征で共産軍は、国民党軍の追跡を逃れて1万2500キロもの距離を大移動したのだから、まさに気の遠くなるような話だった。この移動の過程で、10万人いた共産軍が僅か数千人にまで減少したと聞けば、その苦難のほどが推察できる。

長征に関する本を読んでいて、私が一番感心したのは、移動の途中で多くの兵士が餓死したけれども、一番先に餓死したのが炊事係の兵士だったというくだりだった。私は戦争の末期に最下級の兵卒として軍隊生活を体験したが、兵営の中で一番栄養が好さそうなのは炊事係の下士官やその下にいる兵隊だったのである。だが、赤軍の炊事係は、仲間の兵士たちを飢えさせまいと努力して、自分の食べる分まで皆に提供したから、最初に餓死したのだ。

内戦に勝利して、毛沢東が国家主席になった頃から、マスコミの論調が少しずつ変わってきて、毛を賛美するニュースと並んで、彼の独裁を非難する記事が現れ始めた。だが、進歩派日本人の毛に対する信頼は揺るがなかった。彼は、三大差別の撤廃をスローガンに掲げ、それを着々と実行していたからだ。三大差別とは、次の三つだった。

工業と農業の差別
都市と農村の差別
頭脳労働と肉体労働の差別

この三つの差別がなくなれば、完全な人間平等社会が実現する。毛の平等観は徹底していて、運動会などで、学童が競争して一等になったり二等になったりすることを好まなかった。そして、彼は職業に貴賎がないということを実証するためには、すべての人間が天賦の能力を開発しマルチ人間になる必要があると考えていた。そういう万能人間が多くなれば、集団という集団がすべて自給自足の社会になり得て、他に依存することなく発展できると考えたのである。

毛沢東は、文化大革命時代に農村を改編して人民公社を発足させている。この人民公社は、内部に工場などをかかえこんだ多機能集団だから、都市などに依存しなくてもやって行ける。毛は、また、高学歴であろうが、無学歴であろうが、給与に高下の差のない社会を理想としていた。中国の若者たちが、毛沢東を熱烈に支持したのも、毛の思想を貫くヒューマニズムに共鳴したからだった。

だが、時代の経過と共に、人道主義的革命家としての毛沢東のイメージにかげりが見えてくる。毛の恐ろしさのようなものを私が実感したのは、彼が百花斉放・百家争鳴運動を提唱して批判的分子をあぶり出しておいて、いきなり反右派運動を展開して民主化論者を一掃するのを見た時だった。

共産中国が発足してしばらくすると、共産党による一党支配を批判し、民主化を望む声がぽつぽつ現れ始めた。こうした動きを不快に思った毛沢東は、施政の参考にするから、百万の花が一斉に咲き出すように、各人の思うところを遠慮なく発表してほしいと訴えたのだ。これを真に受けて、いままで政府批判を控えてきた大学教授らが、次々に活発な政策論を展開し始めた。

毛沢東は、百花斉放の運動が頂点に達したところで、政府機関、党機関を総動員して反撃に転じ、民主化を要求した論者を右派分子として厳しく糾弾し、論壇から追放してしまったのだ。そしておいて、「大躍進」運動に取りかかるのである。この運動は、ソ連のフルシチョフへの対抗意識に基づいて着想された、農工にまたがる国民的大増産運動だった。

だが、「大躍進」は無残な失敗に終わり、さしもの毛の地位も揺らぎ始める。この時、中国国内の餓死者は1500万人に達したと言われるから、その被害がどれほど大きかったか分かる。当然、毛への批判がわき上がった。朝鮮戦争の時、中国人民軍を率いて戦った総司令官の彭徳懐などは、「貴方は以前に私を10日間罵った、今度は私が20日間罵る番だ」と毛沢東を満座の中で攻撃している。

当時、毛沢東は党主席と軍事委員会主席を兼ね、劉少奇は国家主席だったが、共産中国のリーダーとしての毛の地位は、こうしたことから劉少奇に奪われそうになった。不安に襲われた毛が、劉少奇を追い落とすために企画したのが文化大革命だったのである。

1965年に始まる文化大革命が10年間続く間に、劉少奇は国家主席の座を追われて獄に入れられ、軍のトップは彭徳懐から林彪に代わっている。この文革も毛の犯した失政の一つで、これは大躍進に匹敵するほどのダメージを国家に与えた。

劉少奇を追放して全権を握った毛沢東は、ナンバー2のポストに林彪を据える。だが、この林彪がクーデターを計画して失敗し、国外に脱出しようとしたものの、飛行機が墜落したために死亡している。その頃、毛は重い病気にかかっていたし、ライバルの周恩来もガンで苦しんでいたから、黙っていても林彪は国家主席になれたのである。それなのに彼は、クーデターを計画した。なぜだろうか。

――私は目下、文革前後の時代を扱っている本を数冊買い足して、読んでいるところで、これまで疑問としていたところが解けたら、ここに報告したいと思っている。