甘口辛口

林彪の陰謀(その1)

2010/3/31(水) 午後 10:43

(紅衛兵に囲まれた劉少奇)

林彪の陰謀(その1)


劉少奇が紅衛兵の突き上げを受けて、国家主席のポストを追放された後に、劉の跡を継いで毛沢東の後継者になったのが林彪だった。経歴からすれば、ナンバー2の地位は周恩来が継ぐべきだったが、それを差し置いて林彪が毛沢東の後釜になったのである。

これは林彪が毛沢東賛美を繰り返して、毛の復権を助けたからでもあるけれど、それだけではなかった。林彪は彭徳懐の下で国防部長のポストを狙っていた頃から、着々と軍の内部に味方を増やし、彭徳懐を追い落として軍の実権を握ってからは、共産党中央委員会にも配下を次々に送り込んで委員会内の最大勢力になっていたのである。中央委員会の勢力分布を見ると、林彪グループは江青一派に支えられた毛沢東グループを圧する勢いになっていたから、毛も林彪の存在を無視できなかったのだ。党の中央委員には周恩来を支持する者もいたが、これはごく少数だった。周恩来は、派閥を作ることを意識的に避けていたのである。

党の副主席になった林彪は、「四人組」と呼ばれている江青グループに接近した。

早くから林彪の野望に気づいてい毛沢東は、林が江青と手を結んだのを見てますます警戒の念を強くした。毛沢東は妻江青の野心にも気づいていて、注意を怠らなかったのである。毛沢東が、自分の跡目を狙う江青を叱責した手紙が残っている。毛は、林彪と江青の同盟関係も最終段階になれば破綻し、両者が食うか食われるかの決戦になると予測していたが、そうなる前に両派の力を削いでおく必要を感じていたのだった。

そこで毛沢東は、憲法を改正して国家主席のポストをなくしてしまった。国家主席だった劉少奇が追放されてから、このポストは空席になっていたのである。毛は、林彪がこのポストを狙っていることを知っていた。林が党の副主席というポストに加えて、国家主席の座に据われば、彼の地位は不動なものになり、その力は毛沢東を凌ぐほどになるのだ。

毛は林彪の長男・林立果が推進する「軍内部の一握りをつまみ出せ」と称する運動に対しても警戒の目を光らせていた。父親と並んで国防軍内部の枢要な地位にあった林立果は、反林彪のメンバーを一掃するために、彼らに右翼分子というレッテルを貼り、「人民日報」などに「一握りをつまみ出せ」という論文を載せていたのだ。

毛沢東は、「戦旗」に載っている林彪派の論文を読んで、「軍内部の一握り」という文字の上に×印をつけ、そこに「不相」(相応しくない)という赤文字を記入して林彪に届けさせた。林彪と江青は狼狽した。林彪の妻の葉群は、この件で盟友の江青に愛想を尽かされることを恐れて、「一握りをつまみ出せ」という言葉は最初の原稿にはなかったのに、別の人間が付け足したのだと必死になって弁解している。

林彪関係の本を通読していて驚くのは、林を国のトップに押し上げるために、息子の林立果と妻の葉群が身を挺して活躍していることだ。葉群は夫のライバル羅瑞卿を引きずり下ろすために軍幹部の会合に乗り込み、11時間にも及ぶ大演説をしている。

ヒネケンというオランダ人ジャーナリストの書いた「中国の左翼」という本を読むと、著者は葉群のことをこう説明している。

<葉群についてはほとんど知られていない。彼女は林彪より二十二ほど年下で、一九五九年林彪の国防部長就任後、中央軍事委員会で林彪の秘書をつとめていた。二人の結婚はおそらく六〇年頃と思われる。葉群がようやく政治の第一線に登場しはじめたのは、彼女が四十歳ぐらいの頃である。しかし、葉群は林彪との結婚後、驚くべき野心を示しはじめた>

このあとに続けてヒネケンは、林彪が発表した重要な論文を調べ、それと同じ趣旨の論文をその数年前に葉群が発表していることを明らかにしている。つまり、著者は林彪の演説や論文の起草者が妻の葉群であり、林が実は22歳年下の妻に操られるロボットだったと暗示しているのだ。実際、著者はこういっているのである。

<このことから、林彪の発想の根源は実は葉群だったのではないかという疑念がわいてくる。そして、これは単に理論面のことだけではない。実際行動においても、林彪と、一九六二年以降しだいに重要性をましつつあった軍総政治部との連絡係りをつとめたのは彼女だった。

・・・・一九六八年、葉群は中央軍事委員会弁公庁主任の要職に任命され、その翌年初めて中央委員に選出され、同時に林彪腹心の将軍数人とともに政治局員に選ばれた。それ以来、彼女は林彪の秘書長のように振舞っていたが、このような状況は多くの人の顰蹙を買っていた。しかし、林彪はどちらかというと内向的な人物で、外部との接触は全て葉群を通じて行なうことを選んだ(「中国の左翼」J・V・ヒネケン)>。

毛沢東は、林彪グループが発信し続けるPRの内容にクレームをつけるだけでない、地方巡視の折に各地の軍司令官や幹部を集めて、林彪の動きを警戒するように言い含めている。毛は、林彪一派を否定する態度を明確に示し始めたのだ。

「毛沢東や周恩来が強くなれば、こっちが危なくなる」、これが林彪、葉群、林立果をはじめとする林一派の合い言葉になった。彼らは、毛が劉少奇を倒したやり方を片時も忘れなかった。毛はナンバー2を指名し、相手を後継者にしておきながら、そのうちに実権を相手に奪われるのではないかという猜疑心にとらわれ、相手をつぶしにかかる。周恩来は聡明だから、そういう毛の気質を読んでナンバー2になることを避けているのだ・・・・
クーデターを起こして毛沢東を倒す決意を固めた林彪について、アメリカ人の記者サン・スーインは彼には心気症の傾向があったのではないかと言っている。

「彼は口数が少く、いつでも体のことを案じていたね」と、林の率いる軍の政治委員であった高栄韓が記者に語ったという。彼には精神分裂症(躁鬱病?)的傾向がって、鬱のあとには躁が訪れ、モルヒネや阿片をしばしば用いる麻薬中毒患者だったともいう。彼は、寒さ、風、すきま風、暑さそして昆虫が嫌いで、旅行のときはスーツケースに一杯の薬を持っていった。

実際、林彪はじっと静かにしていればよかったのである。あと5年おとなしくしていたら、周恩来も毛沢東も相次いで病没し、自然に彼は中国のリーダーになっていたのだ。彼は毛沢東が国家主席を廃止したあとで、配下に命じてこのポストを再度制定するように建議させている。こんなことをすれば、多くの政治局員から疑念を持たれるに決まっているのである。

躁状態になったときの誇大妄想なのか、林彪は全権を獲得したら「林王朝」を発足させ、息子の林立果を皇帝にすることを夢見ていたらしい。皇帝は後宮に仙女のように美しい女たちを集めていた。だから、彼は林立果のために美女をたくさん用意するため、全国から多くの娘たちを集めるような愚かしいこともしたと言われる。

そのくせ、毛を打倒するプランを考えることに疲れて、林彪は計画の立案と実行を林立果に丸投げする姿勢を見せている。こんなことでは、海千山千の毛沢東に勝てるはずはなかった。

(つづく)