甘口辛口

林彪の陰謀(その2)

2010/4/2(金) 午後 9:33

  (林彪夫人葉群)

林彪の陰謀(その2)


林彪の一派が、不穏な動きを示していることは毛沢東の耳にも入っていた。だが、林彪は軍を押さえているから、直ぐに彼を捕らえて糾弾するという訳にはいかない。身の危険を感じた毛は、南方視察を口実に北京を離れて武漢に赴き、そこで軍の幹部を集めて林彪と林立果を攻撃する演説を行っている。それは極めて激しいものだったらしい。

毛の演説内容は、即座に林彪の知るところとなった。彼は決戦の時が来たと感じ、上海にいる林立果に毛沢東暗殺の指令を出した。この時、林彪が頭に描いていた計画は、次のようなものであった。

南方視察の毛沢東一行は、武漢の視察を済ませてから、汽車で上海に回ることになっている。息子の林立果は、これを途中で待ち受けていて暗殺する。毛の暗殺成功というニュースが届いたら、林は自派の北京グループに出動を命じて中央政治局を急襲し、政治局員らを殺害する。こうして林は一挙に党を乗っ取ろうとしたのだった。

だが、もしもこの計画が失敗したら、第二段階に移行することになっていた。一味の黄永勝が地盤にしている広州に逃れ、そこで毛に対抗する政権を樹立して持久戦に入るのである。林彪が広州を選んだのは、海峡を隔てて台湾に蒋介石軍が存在することをことを念頭に置いていたからだと思われる。いざとなったら、蒋介石と手を組むつもりだったのである。

林彪の間違いは、毛沢東暗殺の実行を年若い息子に託したことだった。

林立果は前々から暗殺実行部隊を編成していたが、そのメンバーは主として彼の若い仲間たちからなっていた。そのため、林彪の指示を受けて、いざ行動に移るという段階になると、各人の思いつきに近い案が次々に持ち出されて収拾がつかなくなった。ある者は、鉄橋を爆破すればといいと言い、ある者は線路脇の燃料倉庫を爆破し、人々が消火で騒然となっている間に車室に乗り込んで殺してしまえばいいと主張する。飛行機で毛の乗った列車を爆破し、蒋介石軍の飛行機がやったと見せかければ、というものまであらわれた。

結局どの案が採用されたか不明のままであるけれども、直前になって現場に赴いた者がびびってしまってチャンスを逃してしまったことは確からしい。林立果グループの奇怪な動きは毛沢東周辺の疑念を招き、毛は予定のコースを変更して急遽北京に戻ってしまうのだ。とにかく、林立果の率いる上海グループは、失敗したのである。

計画の失敗を知った林彪は、娘の林立衡を北京にほど近い北載河に呼び寄せている。北載河には林彪の別荘があり、林彪夫妻はこの別荘で事態の推移を見守っていたのである。夫妻は当初の計画が失敗しことを知って第二段階に移ることを決意し、家族全員で広州に飛ぶために娘を別荘に呼び寄せたのだ。夫妻はこれと同時に息子の林立果にも、上海を離れて別荘に集まるように命じている。

夫妻は娘には計画を明かしてなかったので、彼女を別荘に呼び寄せるに当たって、「前から予定していたお前の結婚式を、取り急ぎ今すぐ挙行することにした」という口実を用いた。そして、自分たちが異様に興奮しているのは、娘の結婚式を控えているからだと見せかけた。

いざ結婚式が始まると、林彪の妻・葉群は感情を抑えることが出来なくなった。彼女にとっては、林立果も林立衡も先妻の子で彼女とは血のつながりがなかったが、葉群は娘の婿を抱きしめて激しく泣き出したりした。

林立衡は敏感な娘だったから、両親の行動に腑に落ちないものを感じた。それで用務員を使って事情を探らせてみると、両親は毛沢東暗殺に失敗して南に逃げる相談をしていることが分かった。林立衡が両親と兄を裏切って、周恩来に秘密を告げる気になったのは、彼女も文化大革命の影響を受け、たとえ相手が肉親であろうと毛沢東に仇なす人間を許すことができなかったからだった。

北京にいた周恩来総理は、直ぐに手を打った。彼は中央護衛局に命じて北載河の林彪一家を監視させた。そして、北載河のそばの山海関に林彪が使用しているイギリス製の航空機トライデントが待機していることを知ると、現地の責任者の李作鵬にトライデント機を出発させてはならないと命じた。

ところが現地の責任者の李作鵬は、林彪の同志だったから直ちにこのことを林彪に急報する。そこで林彪は、南に飛ぶことを断念して、北のソ連に逃れることを決断するのである。広州に到達するまでには中国本土上空を長く飛ばねばならないから、中国機に撃墜される危険が多い。だが、北に飛べばその危険性が少なくなると思ったのである。

林彪は専属運転手に防弾装置付きの自動車を用意させて、妻の葉群、息子の林立果と車に乗り込み、フルスピードで山海関の飛行場に走らせた。林彪一家を監視していた中央護衛局の自動車も、その後を急追した。次に述べるのは、先にも引用した「ドキュメント・中国文化大革命」の中の一節である。

<零時二十二分、林彪の車が256号機(トライデント機)の前に到着した。タンク車がちょうど飛行機に給油中であった。林彪一味は車が停まるのも待たないで、あわただしく車から飛び降りた。葉群、林立果、劉捕豊はピストルを手にして、やたらに叫んだり、わめいたりしていた。

「早く! 早く! 早く!飛行機を早く動かせ! 飛行機を早く!」

同時に、飛行機の操縦キャビンの下に走っていって、まだタラップがかけられていないので、キャビンの小さいラダー(ハシゴ)を伝って、一段ずつコックピットに登っていった。彼らは副操縦士、航空士、通信士が搭乗するのが待ちきれず、飛行機の始動ボタンを押し、滑走を強行することを要求した。
飛行場は命令によって夜航灯をつけておらず、飛行機も滑走ランプをともしていなかったため、滑走するとき、飛行機の右翼が滑走路のわきに停まっていたオイル車のタンクの蓋にぶつかって壊れ、翼の上の緑色のガラスのランプ・グローブと飛行機のガラスなどを壊した。零時三十二分、いっさいの通信を遮断して、まっ暗やみの中を、256号トライデント機は離陸を強行した(「ドキュメント・中国文化大革命」)>。

トライデント機が飛び立ったことを知った周恩来は、自ら無線を使って機上の林彪に向かって引き返すように訴えたが返事はなかった。その後も、周は北京の東郊飛行場でも、西郊飛行場でもいいから戻って来てくれ、自分が迎えに行くからと訴え続けさせたが返答はなく、やがてモンゴルにトライデント機が墜落したというニュースが届くのである。

周恩来が、林彪一家の脱走を毛沢東に報告したとき、毛は落ち着いてこう答えた。
「天は雨を降らさねばならず、娘は嫁にやらなければならない。奴を好きなところに行かせたらいい」

――それにしても、林彪はじっとしていれば何事もなく中国最高の権力者になれたのに、どうして暴発してしまったのだろうか。私は、エドガー・スノーの「中国の赤い星」の中にそのヒントが隠されているような気がするのである。

林彪は革命第1世代に属している。長征に参加した第1世代の中では、林彪は最年少者だった。

「中国の赤い星」を読むと、林彪のことを、「28歳になる紅軍の戦術家で、有名な彼の率いる紅軍第一軍団は一度も敗北したことがないと言われていた」と書いてある。彼はその後、軍事的天才という栄光を背に紅軍大学校の校長になっている。

若くして天才といわれた男たちがたどる人生コースには、共通点があるように思われるのだ。自負の念が強すぎて、世俗的な面でも最高の地位を求めてやまないのである。それも、一刻も早く至高の地位に立たないと気が済まない。三島由紀夫はまだ壮年の段階でノーベル文学賞をほしがり、その夢を断たれた時に暴発して自死してしまっている。

三島には、天才的な才能に加えて、お山の大将になりたがる稚気があった。林彪にも「林王朝」を夢見るような稚気があり、それが彼を悲劇的な死に導いていったように思われるのだ。