(上図は新聞からの切り抜き)
高島野十郎の「蝋燭」
今日の朝日新聞を見ていたら、美術欄に高島野十郎「蝋燭」の写真版が載っていた。この「蝋燭」は、NHKの日曜美術館や高島野十郎評伝の挿絵で何度も見ている。にもかかわらず、大判刷りで新聞紙上に掲載された「蝋燭」を目にしていると、改めて強く引きつけられた。
野十郎は、この「蝋燭」を非売品にして20〜30枚も描いている。なぜ、同じものをそんなにたくさん描いたかといえば、これらを世話になった知人へのプレゼントにするためだった。そう聞かされると、成る程と納得されてくるものがあるのだ。
仏教に関する造詣の深かった野十郎は、最澄の「一隅を照らす、これ則ち国宝なり」という言葉を知っていた。だから、彼は、自分が「一隅を照らす」という志を抱いて生きていることを友人・知己に知らしめたかったのである。だから、「蝋燭」の絵は、彼にとって自己を代弁する名刺代わりのようなものであり、自画像だったのである。
しかし、野十郎は「一隅を照らす」という志に反して、世に貢献するようなことを何ひとつしていない。彼は妻を持たず、子供もなく、81年の生涯を全く無名の一市民として生きた。そして、画壇や世俗に背を向け、意固地なほど頑なに売れもしない精密な写実画を黙々と描き続けたのだ。
だが、高島野十郎の「蝋燭」は、本当に彼の自画像だったろうか。
新聞に掲載された「蝋燭」を眺めているうちに、野十郎が自画像として「蝋燭」を描いたという自分の見方が揺らいでくるのを感じた。彼は元々そんなふうにして自分を売り込むような男ではなかったのだ。そのことは、彼の「傷を負った自画像」を見ればよく分かる。この作品が明らかにしているのは、野十郎の自虐的な性格なのである。
──野十郎の評伝を書いた川崎浹の「過激な隠遁」を取り出して、「蝋燭」に関する解説を読み返して見た。著者は、40年前に野十郎から「蝋燭」をプレゼントされたが、作品を見るたびに印象が刻々と変わるといっている。彼は、また、野十郎が「蝋燭」を、あれらは絵馬だと説明するのを聞いたと書いている。つまり、野十郎にとって、友人や知己は神的な存在であり、彼はその神に捧げる絵馬として「蝋燭」を描いたというのである。
野十郎は常々、神は人間の内部に宿ると言っていたというから、彼が友人・知己の内部にある神的なものに捧げる供物として絵を描いたとしても不思議はない。
川崎浹はこう書いている。
<高島さんの独創性は《蝋燭》を人間、殆ど凡夫のなかの仏性に奉納しつづけたことにある。被奉納者、つまり鑑賞者は奉納品によって自分のなかの仏性に目覚める可能性をもつことになる>
野十郎は、すべての人間には、「一隅を照らす」仏性が備わっていると考え、プレゼントをした相手が自己の仏性に目覚めることを期待しつつ、「蝋燭」を描いたと、川崎浹はいうのである。
この解釈なら、「蝋燭」の絵柄にもぴったりする。写真的、即物的な写生画だけを描いてきた野十郎が、「蝋燭」に限って写生を超えた象徴性の濃い作品を描いたのも無理はなかった。ろうそくの炎は、こんなに長く燃え上がることはないし、ろうそくの本体もこんなに透明感のある美しいものではない。だが、仏性の神的な性格を表現するには、この程度の美化は必要だと彼は考えたのだ。
川崎浹がいうように、「蝋燭」の印象は刻々変化する。「蝋燭」の印象が変わってきたら、それだけではない、野十郎作「月」の印象まで変わってきたのである。
(つづく)