(放浪俳人井月の墓)
二つの生き方
数日前に、NHKの「心の時代」という番組を見ていたら、金城重明という80歳の老人が戦争中の体験を語っていた。この人は沖縄の渡嘉敷島での島民による「集団自決」に巻き込まれ、わが手にかけて母と幼い弟、妹の三人を殺したという過去を持っている。当時、彼は、まだ16歳の少年だった。
この集団自決は、「自決」と銘打たれているけれども、実は軍によって強制されたものだった。いくら強制されても、女性や子供は自分で死ぬ勇気と力がなかったから、彼らは父親などに殺してもらったのである。金城少年がなぜ家族を殺さねばならない羽目になったのか、そして、又どうして戦後まで生き延びることが出来たのか、詳しい事情は語られなかった。だが、金城がこの体験以後、暗澹たる記憶を抱いたまま生きなければならなくなったことに疑いはない。
肉親を殺した記憶は「焼きゴテ」で押されたように消えない。いくら忘れようと思っても、消えないのである。そんな金城を救ったのは、知人から貰った一冊の聖書だった。
聖書に描かれているイエスは、十字架を背負って生きていた。イエスは、人類の苦しみを全身に背負って、29年の生涯を生きたのである。金城は、聖書を読んでから、自分もイエスと同じように苦しみを背負って生きて行かねばならないと思った。そう決心すると彼は、希望の光が胸によみがえってくるのを感じた。彼は、キリスト教に入信して牧師になった。
私はこの番組を見ながら感じていたのである、苦しみを背負って生きようとするのがキリスト教徒なのだ、と。そして、クリスチャンにその勇気を与えているものが、十字架を背負って生き、そして最後に十字架にかけられて死んでいったイエスの生涯なのだ、と。イエスの生涯は、信者にとっては、かく生きよという「生き見本」なのである。
ところが、仏教徒は、これとは違った方法で苦しみに対処している。
仏教徒にとって、釈迦は「生き見本」ではない。重要なのは、釈迦の生き方ではなくて、彼が解き明かしてくれた解脱の論理なのである。
釈迦は、「この世のすべては、もろもろの存在と諸力の複合によって生成し、変化する」と考えた。この世界には、不増不減、一定の数量を保っている物質とこれを動かすエネルギーがあり、それらが絶えず組み合わせを変えながら変転している。そのことで、世界史が動き、人事百般が生まれる。この永久運動を自分に有利な形で固定させようとすれば、その無理無体の欲求が自分に跳ね返ってわが身を苦しめることになる。だから、人はこの世の生滅変化をそのまま受け入れ、これを高みから俯瞰する立場、つまり解脱者の立場に移行しなければならない。そうすれば、変転する現象に一喜一憂する愚から抜け出すことができる。
金城重明氏の例でいえば、彼が肉親を殺さなければならなかったのは、そういう因縁の下に置かれていたためだから、いたずらに自分を責めることなく冷静に事態の全体を俯瞰すればよい。そして、過去を葬り、つらい記憶を無化して、新しい気持ちで生き直すのである。
キリスト教徒が、個人的な過ちや苦しみを決して忘れず、それを背負って生きて行くのに対して、仏教徒は、日々の苦悩や悲しみを生滅変化する全体世界の中に投げ入れて無化し、常に新しい気持ちで生き直そうとする。
われわれは、この二つのコースのうち、どちらを選んで生きるべきなのだろうか。そう問いかけるのは、あまり意味がないのである、人は、無意識のうちに、この両方の生き方を使い分けているのだから。
われわれは、ほとんど例外なく忘れてしまいたい記憶を抱えている。このトラウマを無化して楽になりたいというのは、人類共通の願いなのだ。そういうときに人が自己を説得するために持ち出す論理は、釈迦が説いた「因縁連鎖」「五蘊仮和合」の論理なのだ──「あれは自分が悪いのではない、あの時には、そういう巡り合わせだったのだ」
だが、いかに自分をなだめようとしても根本的な解決にはなっていないから、記憶は残り、「振り向けば、鬼千匹」ということになり、逃げようとしても逃げられずに最後には、罪を背負って生きようといことになる。実際、それしか解決の方法はないのだ。キリスト教徒でなくても、最後はそうなるのである。
(また、また、sonnetなるストーカーが出没を始めたので、残念ですがコメント欄を閉鎖します)