(上段の左は幸徳、右は新村忠雄、下段は管野スガ)
大逆事件から100年(その3)
天皇暗殺を謀議した実質4名の容疑者たちは、管野スガをのぞいては、いずれも思慮の足りない幼稚な行動が目立っている。特に、事件発覚前に宮下太吉、新村忠雄が見せた行動は、あきれるほど無防備だった。これに比べると、幼い頃から人生の辛酸をなめ、赤旗事件で逮捕されている管野スガは、当時の官憲の残酷な手口を骨身に応えて知っていた。だから、宮下太吉の軽率な行動に恐怖を感じたのである。
糸屋寿雄の「大逆事件」には、こんな記述がある。
<菅野須賀子は京都の女である。・・・・明治十四年」ハ月七日の生まれで、父管野義秀は鉱山師、母には幼時死別し、継母の虐待のために大いに苦しめられた。
異母兄、弟妹があり、高等小学校卒業後十六七歳のころ、継母の命をうけた鉱夫の
ために凌辱せられ、しかも母はこれを須賀子自身の放埒として父子の離間につとめた。
須賀子の生涯をつらぬく自棄的な気分は、ここに深く根をおろした。
二十歳のとき東京深川の小宮某と結婚し、間もなく離婚。鉱山業に失敗し中風のために半身不髄となりながらも、なお朝夕の食膳にぜいたくをならべる父親と、弟妹各一人をかかえて苦闘した。(「大逆事件」糸屋寿雄)>
管野スガは女流作家として立ちたい夢を抱いていたので、大阪文壇の重鎮だった宇田川文海に師事していた。彼女は宇田川の斡旋で、あまり出来がいいとはいえない小説を大阪の新聞に載せて貰ったが、そのためには相手に肉体を提供しなければならなかった。
小説家としての自分の才能に見極めをつけたスガは、新聞記者に転身することを考え、週刊平民新聞社に堺利彦を訪ねてその指導をうけることになる。そして堺利彦の仲介で、毛利柴庵という男の経営する牟婁新聞の編集主任になった。彼女は単に編集主任というだけでなく、柴庵と結婚する約束もあったのだが、妹を連れて和歌山県の牟婁に着任してみると柴庵には久しく肺病で寝ている妻同様の女がいることが判明した。
柴庵に裏切られたスガは、この地でいろいろな男と性的関係を結んでいる。それは「破戒乱倫」というに近いほどの荒れようだったが、荒畑寒村を知ることによって立ち直るのだ。スガより8歳年少の荒畑寒村も、堺利彦の斡旋で牟婁の地で新聞記者をしていたのである。
やがて、スガと寒村は上京し、堺利彦が間に入って結婚することになった。その矢先に二人とも赤旗事件で逮捕されたのだった。
管野スガは、婚約者の寒村より一足早く出獄したが、途方に暮れた。それまでに勤務していた「毎日電報」社を解雇されていた彼女は、何処にも仕事口がなく、どうやって生きていったらよいのか分からなかったからだ。こういう時に面倒を見てくれる堺利彦はまだ獄中にいたから、彼女は高知から出てきた幸徳秋水に頼るしか方法はなかった。幸徳はスガの窮状を知ると、自宅に引き取ってくれた。
幸徳秋水には、諸岡千代子という貞淑な妻がいたが、彼は妻を土佐に残して上京してきていた。幸徳は善良で従順な千代子が、社会主義者の妻として積極性を欠いていることに不満を持っていたから、同居させた菅野スガの激しい気性に惹かれ、ついに彼女と深い関係になってしまったのである──。
1910年5月25日、松本警察署は清水太市郎の密告に基づいて、ついに宮下太吉の検挙に踏み切った。
署員は、清水太市郎の手引きで、明科製材所を臨検し、機械据付部分の下から鶏冠石を粉末にしたものと、紙袋入塩酸加里その他の薬品類を押収した。そして、清水太市郎の家に隠されていたブリキ缶多数を押収する。これを手始めに、逮捕者は次々に増えていった。
天皇暗殺の容疑で逮捕されたのは、次の4名だった。
宮下太吉
新村忠雄
管野スガ
古河力作
ほかに爆発物製造に関与した罪で、二名が逮捕された。
新村善兵衛(新村忠雄の兄で、宮下に薬研を貸与した容疑)
新田融(ブリキ缶製造の容疑)
以上の6名に加えて、幸徳秋水も逮捕されている。幸徳が管野スガや新村忠雄と同居していて、計画を知らなかったはずはない、という理由からだった。
逮捕された容疑者は、この7名だけだった。官権当局も、これ以外の被疑者を洗い出すことが出来なかった。何しろ事件の内容としては、宮下が清水夫婦に話したという夢のような犯行計画があるだけで、事件の物証はブリキ缶と薬品があるだけなのである。
爆弾に使用するために宮下が新田に作らせたというブリキ缶も、直径一寸、長さ二寸の玩具のようなものだった。一寸は、3.03センチだから、ブリキ缶は握れば手のなかに隠れてしまうほどちっぽけな代物だったのだ。
だから、東京地方裁判所の小林検事正は六月四日の新聞記者会見で、つぎのような談話を発表したのである。
「今回の陰謀は実に恐るべきものなるが、関係者は只前記七名のみの間に限られたるものにして、他に一切の連累者なき事件なるは余の確信する所なり」
この談話は翌五日の各新聞紙上略掲載された。同じ翌五日に、有松警保局長も、同じような談話を発表している。
「被告人は僅々七名に過ぎずして、事件の範囲は極めて僅少なり、騒々しく取沙汰する程のことにあらず」
事件を取り調べた責任者や、治安維持に当たる官僚のトップが、事件はこれで終わりと終結宣言を出しているのである。にもかかわらず、事件がフレームアップされ、新たに容疑者が続々と逮捕されたのはなぜだろうか。
(つづく)