(大石誠之助)
大逆事件から100年(その4)
事件をフレームアップするために、検事側が作り上げた「絵柄」は次のようなものであった。
「サカイヤラレタ スグカエレ」という電報を郷里の土佐で受けた幸徳秋水は、東京に戻る途中、紀州新宮町の大石誠之助をはじめ、箱根の内山愚童など各地の社会主義者を訪ねている。当局は、これは、幸徳が彼らと実力行使の下相談をするためだったというストーリーを作り上げ、これをスタートにして事件の絵を描いている。幸徳の上京は、大逆事件の二年前、つまり明治41年7月から8月にかけてのことだったったから(「大逆事件」の摘発が始まったのは、明治43年5月25日)、事件は二年間かけて練り上げられた計画的犯罪だったとされている。
幸徳が東京に落ち着いてから、新宮町の大石をはじめ、各地の社会主義者が相次いで上京して幸徳を訪ねている。相互に連絡が取れなくなっている社会主義者らは、幸徳の口から全国の社会主義者の動向を教えて貰いたかったし、赤旗事件で打撃を受けた首都の社会主義が、幸徳のもとで再建されているかどうか知りたかったのである。
当局は、各地の社会主義者の上京してきた日時が、11月頃に集中している点に目をつけて、「11月謀議」なるものをでっち上げている。主義者たちは、この会議で明治天皇暗殺を議決し、地元に帰って決死の士を募ることになったというのだ。
当局は、宮下太吉らの計画も、この謀議の一環であったとして、宮下グループと「11月謀議」の関係者を結びつけ、大石誠之助以下多数の社会主義者の処刑を正当化したのだった。
だが、いくら天皇制時代の非公開裁判であっても、知名の社会主義者を死罪にするには、それなりの証拠が必要になる。物証がほとんどないのだから、被告の自白が必要になるのだ。それで、検察が苦し紛れに持ち出したのは、幸徳が大石誠之助らに語った談話だった。
大石は東京に幸徳を訪ねた後に、新宮町に戻ってから新年宴会を開いている。その席上、彼は集まった知友に土産話という形で幸徳の話をしている。
「僕は今度東京で幸徳に逢ったら、幸徳はこんなことをいっていた。
政府が、われらにたいする迫害はほとんど無茶苦茶で演説もできなければ集会もできない、むろん新聞も雑誌もなんにも言論の自由がないから、絶対的に暴圧せられると温和になにもできたものじゃない、なにか一つ奇抜なことをやって政府を驚かしてやりたいものだ。なんでも決死の士三、四十名もあれば、富豪の倉庫をひらき、貧民に財を施し、諸官庁を焼きはらい、宮城に進んで陛下に無政府主義的政体を組織する御許可を乞う云々位はやれる……」
大石の話は、その場限りの土産話だったから、話す方も聞く方も気にも留めなかった。だが、何とかして証拠を得ようとしている検事は、こんな話にも飛びついて公判廷に証拠として持ち出したのである。
幸徳秋水は、次々に訪ねてくる社会主義者を相手に、それが初対面の人物であっても同じような話をしている。新しい話題を考え出すよりも、その方が楽だったからだ。この話の元になっているのは、若い頃に彼が林有造から聞いた思い出話であった。
青年時代の幸徳は、土佐の自由民権論者林有造の玄関番をしていた。彼は主人の林有造から、明治10年の西南戦争の頃、立志社の志士たち50人を率いて大阪鎮台を攻撃し、明治天皇を擁して立憲制を断行しようとしたことがあったという回想談を聞いたことがあった。
幸徳はこのエピソードを枕にして、壮士50人で皇居に押し寄せて天皇に社会主義を制定させたら面白かろうという話にしたのである。ところが、これが材料に窮した検事の手で大逆事件の証拠にされてしまうのだ。
───検察当局や治安当局が宮下太吉らの計画を児戯に類するものとして幕引きをはかったのに、これをフレームアップして大事件に仕立て上げたのは、元老の山県有朋であり、その忠実な配下だった桂太郎だった。
山県は、西園寺公望内閣の後に桂太郎内閣が成立すると、桂に社会主義への弾圧を強化するように指示していたのだ。
山県と西園寺が不倶戴天の関係にあったのは、山県が極右のタカ派だったのに対し、西園寺は明治政界きってのリベラル派だったからだ。西園寺は、少年時代に明治天皇の学友として宮中に出入りしていたが、青年期になるとフランスに留学して自由・平等・博愛の空気をたっぷり吸収して帰国し、自由民権運動のスポンサーになった。だが、性格的に淡泊な西園寺は、侍従長をしている実兄から幼馴染みの明治天皇も心配していると告げられ、天皇の「内勅」なるものを突きつけられると、民権運動の第一線から退いてしまう。
しかし、これだけの人材である。西園寺は政党内閣が発足するや、すぐ閣僚に引っ張り出され、挙げ句の果てに立憲政友会の総裁に祭り上げられる。首相になった西園寺は言論の自由を尊重する姿勢を示し、日露戦争後の社会主義者が「非戦・平等」の運動を展開しても大目に見ていたのだった。
陸軍の大ボスだった山県は、社会主義者らの反戦平和の運動を放置できなかったし、それよりもっと許し難いと思ったのは、人間平等論の方だった。天皇の神秘的な権威を利用して民権運動や藩閥反対の運動を弾圧してきた山県からすれば、天皇がただの人間にされてしまっては、民権運動弾圧の武器がなくなってしまう。山県は、天皇をあくまでも「現人神」のまま残しておくためには、人間平等論を根絶させなければならなかったのだ。
山県有朋は、宮下太吉の事件を耳にすると、これは西園寺内閣による自由放任政策の結果だと攻撃し、西園寺を窮地に追い込もうとした。山県の意を体して桂内閣は直ちに動いた。司法省民刑局長平沼騏一郎をして大審院検事を兼任させたのである。行政官の平沼に司法官を兼ねさせ、司法と行政を一体化させて、事件を社会主義弾圧の方向に振り向けて行った。
日本の裁判は三審制度を取っていたが、この事件は当時の最高裁に相当する大審院
で一回限りで審理された。しかも、公判は非公開で、審理は僅か一ヶ月間で終了、証人尋問もなかった。そして死刑24名、有期刑2名の判決が下ったのである。その後、死刑は12人までに減らされたが、有期刑になった14人のうち、2名が獄中で自ら縊死している。
判決後、最初に法廷を出たのは女性の管野スガだった。
<彼女は手錠のままの手でかがんで編笠をとった。ここを出てしまえばふたたび顔を合わすことができない。永久の訣別である.彼女は心持背延してみんなの方を見た。すきとおった声で彼女は叫んだ。
「皆さん左様なら」
被告の視線は期せずして彼女にあつまった。内山愚童が、
「御機嫌よう」
と答えた。内山の返事でもあり、皆の返事でもあった。
彼女は笠で面を蔽うて、すたすたと廷外へ小走り出た。
「無政府党万才!」
大阪の三浦安太郎が叫んだのが、キッカケとなって、幸徳以下被告−同がこれに和した(「大逆事件」糸屋寿雄)>
死刑になった12名のうち、もっとも剛胆だったのは古河力作で、その場に臨んでややひるんだ様子を示したのは新村忠雄だったという。新村は執行の宣告を受けた瞬間、軽い脳貧血のため倒れかかったが、教誨師に背後から支えられて立ち直り、「従容として刑についた」という。
(つづく)