甘口辛口

大逆事件から100年(その5)

2010/9/3(金) 午後 8:52

 (森近運平の妻と娘)

大逆事件から100年(その5)


大逆事件はあまりにもひどい暗黒裁判だったから、国内のみならず、諸外国からも抗議が殺到して桂内閣を狼狽させた。日本国内をとってみれば、もっとも強く政府に抗議をしたのは、徳富蘆花や永井荷風などの作家たちだった。永井荷風などは、こんな日本で作家として生きることを恥じると言い、これから自分は堕落した国家にふさわしい堕落した戯作者として作品を書いて行く、と宣言している。

山県有朋の庇護を受けていた森鴎外も、さすがにこの裁判に対しては怒りを禁じ得なかった。彼は軍医総監という職を賭す覚悟で、「沈黙の塔」という作品を書いた。

天皇大権を利用して明治政界のトップまで上り詰めた山県有朋は、自らの権力を過信して、「宮中某重大事件」と呼ばれる事件を引き起こしている。皇太子妃に久邇宮良子が選ばれたときに、久邇宮家には色盲の遺伝があると反対したのだ。これが山県の躓きの石になった。右翼などから「山県は、皇室を私物化している」と攻撃され、さしもの山県の勢威も地に落ち、大正の政界は政党政治の時代へと移って行くのである。

12名の被告を死刑にした政府に対して、国内の知識層は批判的だったが、一般庶民の反応は違っていた。政府が民主主義陣営に対して過酷な弾圧を加えても、民衆はむしろ政府に同調して民権派を敵視したのだった。天皇大権のもとで自己家畜化しつつあった民衆にとっては、常に弾圧される側が悪なのであった。

この傾向はその後も続き、国民の多くは小林多喜二が拷問されて死んだことを知りながら、それ故に共産党を「アカ」呼ばわりして敵視していた。NHKの「大逆事件から100年」という番組は、そうした国民の反応を克明に描いている。

この番組が取り上げたのは、新宮市出身の被告家族らが味わった苦難の生涯だった。大逆事件の被告には、新宮グループ、九州グループ、関西グループなどいろいろな人間が混在していたが、グループとしては新宮グループが一番大きく、そのメンバーは6名になっている。そして、判決ではこの全員が死刑にされているのである。

だが、判決の翌日に、このうち4名は有期刑に減刑されて、実際に処刑されたのは、大石誠之助と成石 平四郎の二人だった(有期刑に減刑されたうちの一人は、獄中で自ら縊死している)。

新宮グループがこんなに多くなったのは、当時、新宮地方に部落差別問題が起きて、洋行帰りの医師大石誠之助を中心に良心的な住民が部落民を応援したからだった。このメンバーは、その後も機会あるごとに集まって、議論したり酒を飲んで談笑したりしていた。上京して幸徳秋水と会ってきた大石誠之助が、帰郷すると早速新年宴会を開き、メンバーに幸徳の話をしたのも一同にとっては慣例のようなものだった。

この新年宴会に顔を出した若いメンバーは、逮捕されてから何をしゃべったのかよく覚えていないけれども、「大言壮語をした」ことだけは記憶していると検事に白状している。大石の土産話と酒の酔いに煽られて、彼らが天皇なんていない方がいいのだ位の放言をしたことは、十分に考えられる。新宮グループの多くはこの程度の放言をとがめられて逮捕され、死刑判決を受けたのである。

被告の家族や親戚は、自宅に石を投げ込まれたり、さまざまの苦難をなめたというけれども、テレビ番組を見ていてやりきれなかったのは、小学校に通っている子供たちが受けた迫害だった。

教師が教室で、「この中に国賊の子がいる」と言ったために、級友はその生徒を避けるようになり、皆のところに寄って行くと、仲間は生徒を避けて逃げてしまう。学校では、「御真影」と呼ばれる天皇の写真を、生徒たちが土下座などして最敬礼することがあった。そういうときに、被告の子供や被告の甥・姪は、「お前たちはここにいなくていいから」と追い出されてしまう。

「どうして、ここにいては、いけないのですか」と抗議すると、教師は、「逆賊の子だからだ」と答える。こんなことが成人してからもずっと続いたから、家族らは迫害を逃れるためには新宮を捨て出て行くしかなかった。

天皇や皇太子の暗殺を謀った大逆事件は、その後も散発的に起きている。それらは単独で、あるいは男女二人が組になって計画され、結局、計画倒れに終わったものが多かった。だが、地域住民による被告家族に対する迫害は時代がたつにつれて激しくなる一方だった。なかには、見ると目の汚れになるというので、住民たちが被告の生家の周りを高い土手で囲ってしまったケースもあった。

迫害を受けた容疑者の家族や縁者の運命を追跡調査したのは、NHKばかりではなかった。田中伸尚の「大逆事件」は、事件後の家族の運命を丹念にたどり、異色の実録本にしている。

森近運平は、初期社会主義者の中で幸徳秋水らと併び称された男で、堺利彦などからもその理論と実践を高く評価されていた。労働連動にも大きく貢献したが、農学校出身だった運平の本質は、農業の変革を目指す実践者だったことにあった。彼は、地元でガラス温室を利用した高等園芸を始めていた。

森近は逮捕されたとき、赤旗事件後に幸徳を訪ねて話をしたこと以外に思い当たることがなかったので、すぐに無罪になると確信していた。だが、案に相違して死刑判決を受けた彼は、処刑されたら遺体を解剖用に提供して、医学の進歩に役立てたいと思った。堺利彦は、森近の願いを聞いて、その手はずを整えてやった。

<(処刑当日に)、東京監獄の不浄門から運びだされた運平の遺体は、現・東京大学医学部附属病院に運びこまれたが、いったん解剖を引き受けた大学が、国家権力の意思を慮ったのか急に態度を変えて断り、三日後の十一年一月二七日に落合火葬場で荼毘に付された。

実は解剖を希望した刑死者が、もう一人いた。十一人目に処刑された古河力作である。しかし大学側は運平の遺体と一緒に運びこまれた力作の遺体の解剖も拒否した(「大逆事件」田中伸尚)>

古河力作と同郷の水上勉は、小説『古河力作の生涯』の中で、「学問が真理のためより、権力のためにゆらぐこの国の一面を物語って面白い」と書いている。

森近運平は正義感が強く、その真っ直ぐ性格もあって村人の尊敬を集めていた。そのため、死刑判決の出た直後には、地元で助命運動が起きた。「大逆」という罪名をつけられたにもかかわらず、判決直後に助命運動が起きたことを見れば、運平の生き方への周囲の敬愛の念がいかに探かったか分かる。

しかし実際に森近が処刑されると、村の空気は一変し、凍りついたようになった。そのときの人びとの驚愕を「村中が、でんぐり返った」と表現した住民がいる。森近が処刑された途端に、住民の彼に対する同情は一挙に冷え、彼に冷たい目をむけるようになったのである。

そして戦後になり、彼の刑死から半世紀たって大逆事件の被告らに対する再審請求が行われることが判明すると、森近に対する住民の態度は、また、変化する。二〇〇五年に刊行された新しい『井原市史近現代通史編』には、運平について九ページにわたる好意的な記事が書き込まれ、〇八年に市教委が全世帯に配布した市民向けの『井原歴史人物伝郷土が生んだ偉人たち』にも森近運平は取り上げられるようになった。

住民たちのこうした意識の変化は、日本人の精神構造を示していて、大変に興味深い。