甘口辛口

佐野洋子の「役にたたない日々」(その1)

2010/11/17(水) 午前 10:05

佐野洋子の「役にたたない日々」

婆さん評論家には、桜井よしこや金美齢のような救いがたい低脳女もいるが、米谷ふみ子や佐野洋子のような、男どもに一目置かせる優秀な書き手もいる。ところが、この頃の私は、米谷・佐野に加えて、伊藤比呂美という女流三人の印象がごちゃごちゃになって、誰がどうだったのかハッキリ区別出来ないようになっている。

だから、新聞で佐野洋子がガンで亡くなったという記事を読んでも、(さて、佐野洋子というのは、だれだったろうか。「過越しの祭」で芥川賞を取った反戦主義の画家だろうか、「とげ抜き 新巣鴨地蔵縁起」を書いた詩人だろうか、「神も仏もありませぬ」の絵本作家だろうか)と混乱してしまったのである。

その誰が誰だか分からなくなっているところの佐野洋子が、自らのガン体験について記した「役にたたない日々」という本を書き残していると知ったので、とにかくその本を注文することにした。何でも、それはガンなど屁でもないという著者の心意気を披瀝した本だということだった。

だが、「役にたたない日々」にはガンに関する話がほとんど出てこなかった。

著者が横臥して韓流映画を朝夕眺めているうちに、同じ姿勢で同じ方向のTVばかりを見ていたために、あごの骨がはずれてしまったというような話が書いてあるのだ。それはそれで面白かったから、大いに笑ったのだが、読み進めて行くと、やっと最後の章になって、「ガンなど屁でもない」という勇ましい文章が出て来たのである。

佐野洋子の乳ガンを見つけてくれたのは、耳鼻咽喉科医の女医だった。佐野は、乳ガンは小豆大のコリッとした固まりだと聞いていたのに、彼女のものは雑煮のもちみたいなものが左側の乳房だけにあった。耳鼻咽喉科の女医は、患部を触った後で、「すぐ病院に行きなさい」と命じた。それで、自宅から六十七歩の近さにある病院に行ったら、乳ガンであることが確定し、患部を切除することになったのだ。

佐野洋子の文章が、彼女らしい流儀を発揮するのは、このへんからであった。佐野は、「役にたたない日々」のなかに、こう記している。

「手術の次の日私は六十七歩歩いて家にタバコを吸いに行った。
毎日タバコを吸いに帰った。

一週間入院して帰って来て、オッパイも今や不要なものになって、オッパイでよかったなあと思って、抗ガン剤でツルッパゲになったが一年は生きていると思われない程使いものにならないきつい一年で、使いものにならなかったので、寝たきりで韓流ドラマを見ていたら、あごが外れた」

佐野洋子は、これで万事完了と思ったらしかった。だが、ガンは骨に転移していたのである。ある日、外出してガードレールをまたいだら、ポキッとした感じがあった。それで、病院の整形外科に行ってレントゲンを撮ったら、乳房切除をしてくれた医者が顔色を変えた。

医者は、すぐに癌研を紹介してくれた。癌研では専門病院を紹介してくれる。以下に転載するのは、佐野洋子でなければちょっと書けないような文章である。

「私はラッキーだった。担当医がいい男だったからだ。阿部寛の膝から下をちょん切った様な、それに医者じゃないみたいにいばらない。いつも笑顔で、私週一度が楽しみになった。七十パパアでもいい男が好きで何が悪い」

「いい男が好きで何が悪い」と啖呵を切った後で、彼女の文はいよいよ佳境に入る。

<初めての診察の時、

「あと何年もちますか」
「ホスピスを入れて二年位かな」
「いくらかかりますか死ぬまで」
「一千万」
「わかりました。抗ガン剤はやめて下さい。延命もやめて下さい。なるべく普通の生活が出来るようにして下さい」
「わかりました」>

佐野洋子は、自由業で年金がないから九十まで生きたらどうしようとセコセコ貯金をしていたが、あと二年しか寿命がないとしたらそんな貯金は必要ない。彼女は病院からの帰途、近所のジャガーの代理店に行って、売り場にあった一台の車を注文した。

「それ下さい」

ジャガーに乗った瞬間、シートがしっかりと彼女を受け止めてくれて、あなたを守ってあげるよと言っているみたいだった。乗っていると、クルマに対する心からの信頼が自然にわきあがって来た。

「あー私はこういう信頼感を与えてくれる男を一生さがしていたのだ」という思いがこみ上げてきた。けれど、あと二年しか生きられないのだから、もう、そんな男に巡り会う可能性はない、そう思うと、がっかりした。「でも」と佐野は思い返した、「最後に乗るクルマがジャガーかよ、運がいいよナア」と。
 
佐野洋子は、七十で死ぬことを理想としていたと強がりを言っている。そして、(神は居る。私はきっといい子だったのだ)と自分に言い聞かせ、(今、自分には何の義務もない。子供は育ちあがり、母も二年前に死んだ。どうしてもやりたい仕事があって死にきれないと思う程、私は仕事が好きではないのだ)と自分自身で確認した。

しかし、不思議なことがおきたのである。余命二年と云われたら、十数年間、彼女を苦しめていたウツ病がほとんど消えたのだ。

彼女は、人生が急に充実して来たような気がした。毎日が楽しくて仕方がなくなった。程なく死ぬとわかるってことは、自由を獲得することではないかと、思った。

私小説作家の耕治人は、ガンになったときに、これは罪多き自分に下された罰だと感じて病苦に耐えている。だが、佐野洋子は、ガンになったことを嘘か本当か、神の恵みだと言っている。

彼女がガンを神の贈り物と考えたのは、十数年間の鬱病で生きることを負担に感じていたからだろうか。その問題について考える前に、「役にたたない日々」に記された他の記事を見てみよう。

(つづく)