甘口辛口

佐野洋子の「役にたたない日々」(その4)

2010/11/29(月) 午後 6:52

 (佐野洋子)

佐野洋子の「役にたたない日々」(その4)


佐野洋子の「シズコさん」は、最初に著者に対する母親の虐待振りを描き、後半に入って、母にもいいところはあったとして、母親の主婦としての有能ぶりを紹介するという構造になっている。そして、巻末になると、まるで一昔前の「母もの」映画のように、和解した佐野と母親が涙を流して抱き合うことになっている。

こうした「母もの」映画的構造は、一応の効果を発揮しているけれども、ここはやはり構造を逆転させて、佐野家の家族を純客観的に描くことから始めるべきではなかったろうか。戦前の家庭は、どこでも子だくさんだった。それで、家事に追われる母親は、仕事の一部を長女に負担させるのが普通だったのである。

長女は家の中では、第二の母の役割を果たしていたから、幼い弟妹のおむつを洗うというようなことは、さほど珍しいことではなかった。私が読んだ生徒の手記のなかに、母からの聞き書きとして、おむつ洗いについて書いてきたものがあった。その生徒の母親は、まだ小学生だった頃、生まれて来た赤ん坊のおむつを真冬の池で毎日洗っていたというのだ。池は氷で鎖されているから、洗う前にまず氷を割らなければならない。そうやって、洗っていると、冷たさが痛みになって手先から脳へと突き上げてきたという。

──ここで著者に代わって、佐野家の概略を紹介してみよう。

父親は、左翼系の研究者だったらしい。戦前の左翼研究者は、弾圧を逃れて中国大陸に渡り、満鉄の調査部に潜り込むものが多かったが、佐野の父親もその一人だったらしい。佐野は、父の職場について、以下のような記述をしているだけである。

<中国で父が行っていた中国農村慣行調査というフィールドワークが、父が死ぬ数年位前に出版された時、朝日文化賞を受けた。
満鉄の調査部の仕事だった。農村慣行調査をするグループの一員だったが、父の友人達はそのグループの人達で、皆家族ぐるみのつき合いをしていた>

佐野の父は、グループ内では仲間から「カミソリ」といわれるほど頭の切れる男だった。が、敗戦で帰国すると高校教師になり、その十一年後に死去している。

この父は、家を残さず、金も残さなかったから、四十二歳で未亡人になった母は、父の友人の仲介で地方公務員になって四人の子供を育てることになる。母の生んだ七人の子供のうち三人は病死したから、その後には三人の娘と最後に生まれた末弟とが残されていたのだ。地方公務員としての母の仕事は、市立の母子寮の寮長だったから、一家はその寮に住むことができた。

母は家事能力が非常に優れていたので、掃除も洗濯も料理も何でも見事にこなし、狭い住居の中は何時でもまるで子供のいない家庭のように整然としていた。三人の娘たちは、その母から料理・編み物・縫い物を見よう見まねで習得したのだった。

彼女の卓越した能力はそれだけではなかった。金のやりくりにも長じていて、薄給の身で子供たちすべてに大学教育を受けさせ、それぞれを地道な職業に就かせている。すぐ下の妹は結婚して奈良で教師になり、末の妹は東京で保母に、弟は市役所勤務の公務員になった。佐野洋子自身は、武蔵野美術大デザイン科で学んだ後にベルリン造形大学でリトグラフを学び、絵本作家になっている。

母は、草月流の生け花の勉強を始めると、師範の免状を次々に取得し、すぐさま生徒に教え始めた。こうして得た収入を加えて母は、独力で家を建てている。彼女は、その家に末子を住まわせ、彼を結婚させて、盤石の生活基盤を整えたかに見えた。

母は、よその人間にも親切だった。父の教え子達が五、六人正月に集まる習慣があったが、母は喜んで彼らをもてなし、楽しそうに話に加わるのが常だった。父が死んだあとも、彼らは二十年以上毎年正月に訪ねてくれた。母は、彼らの恋愛話や、結婚話を聞いいてやり、時には、もたついている恋愛相手の女の所に乗り込んでいって、話をつけてやったりした。佐野の母は、彼らにとっては頼りがいのある母のような存在だったのである。

そのグループの中の二十歳でがんになって亡くなった青年などは、死にぎわに病院から母に会いたいと云って来たほどだった。

その母の身の上に、末っ子の事故が原因で、突然不幸が襲って来るのである。この弟について、佐野洋子は次のように書いている。

<母の子供の中で、一番くそ真面目で、おとなしく、辛棒強い弟、決して出しゃばらず、他の人が嫌がる仕事を黙々とする弟、しかし神がまるでエース松坂ではないかと思う程、弟に集中命中する様に運が悪いのだった>

弟は、飲酒運転による交通事故を起こして、市役所をクビになってしまったのである。退職金なしの馘首だった。地元のテレビにも、弟の顔写真が映し出されるような事故だったから、佐野洋子を含む肉親縁者が母の家に集まり、小さな家の中はごった返すような騒ぎになった。そんなさなかに、佐野の母が間の抜けたことを口にしたのだ。彼女はこの頃から認知症の兆候を見せ始めていたのである。

「ねえ、ごはんまだ?」

すると弟の嫁は、目を怒らせて、「何云ってるだよ、ごはんどころではないだよ!」と母を丸太棒で殴りつけるような勢いで叱った。

それから嫁は佐野洋子の方に向き直ると、切口上で言い放った。

「姉さん、お母さんを引き取っていただきます」

有無を云わせない口調だった。その恐い目で睨まれて、佐野洋子は思わず、「はい」と答えていた。こうして母は、自分が建てた家から追い出されて、佐野の家に転がり込むことになったのだ。

母は、それ以前にも時々上京してきて佐野の家に逗留することがあったが、何日かすると必ずけんかになった。すでに、母娘の力関係は変わってきていて、佐野が母を泣かすことが増えていた。母が泣きながら、「私のどこが悪いのよ」と訊ねるので、「優しくない」と佐野が答えると、母はぎくっとして黙ってしまう。

だが、母は、恨めしそうにこういうこともあった。

「あんたが私に言ったこと、必ず報いになって自分に返ってくるからね」

そんな憎まれ口をたたいているうちはよかったが、母は次第にボケ現象が進んで、放っておけないようになった。近所の医者に行った帰りに、彼女は家の角のところで、ぼーっと立っていた。何時までも立っているのである。家が分からなくなったのだ。

佐野洋子は、書いている。

<私は正気の母さんを一度も好きじゃなかった。いつも食ってかかり、母はわめいて泣いた。そしてその度に後悔した。母さんが、ごめんなさいとありがとうを云わなかった様に、(註:佐野は、母が「ごめんなさい」「ありがとう」を絶対に言わない女であることにこだわっていた)私も母さんにごめんなさいとありがとうを云わなかった。

今気が付く、私は母さん以外の人には過剰に「ごめん、ごめん」と連発し「ありがと、ありがと」を云い、その度に「母さんを反面教師」として、それを湯水の様に使った。でも母さんには云わなかったのだ>。

佐野洋子は、十八で家を出て女子寮に入ったが、ホームシックになることはなかった。彼女と同じようにホームシックを知らない妹が佐野に尋ねたことがあった。

「姉さんホームシックになったことない?」
「全然ない」

佐野は、こう書いた後で、「かわいそうな母さん。かわいそうな私達」と付け加えている。

母をホームに入れなければならなかったときに、佐野は分不相応な最上級のホームを選んでいる。佐野は、「私は母を愛さなかったという負い目のために、最上級のホームを選ばざるを得なかった」といっている。

<ホームから帰る時、私はいつも落ち込んだ。うば捨て山を見学に行った様な気分になった。自分の老後のために貯め込んだ金を洗いざらいはがし、毎月、私の生活費以上のものを払い込んでいるとんでもなく金がかかるうば捨て山なのだ。

しかし、それ以外に道はなかった。
私は私以外に親にこんな多額の身銭を切った人を知らない。この施設の人は自分の財産がある人で、子供が費用を払っているのは私だけだと事務の人が云っていた。それは、私の母への憎しみの代償だと思っていた>
 
(つづく)