(「100万回生きたねこ」より)
佐野洋子の「役にたたない日々」(その5)
佐野洋子の母は、父が亡くなってから下品になった。
それまで一滴も飲んだことはないのに、酒を飲み始めたのだ。母はその時まで、女は酒を飲むものではないと思い込んでいたらしかった。酒におぼれるということはなかったが、それ以来急に下品になったのだ。見栄っ張りなところは変わらなかったから、「下品な見栄っ張り」になったのである。
だから佐野は、母をホームに入れてからも、はじめのうちは一人で母の部屋に入ることができなかった。二人だけになると間が悪くて、どうしたらいいか分からなくなるのだ。それで、ホームに出かけるときには、母を知っている友達を連れて行くことにした。まだ、お客好きの性格が変わっていなかった母は、娘が友達をつれてやってくると、表情がパアーッと明るくなり、一生懸命客をもてなそうとした。
佐野の友人のなかには、自らの母を憎んでいて、 顔を見ると「首をしめたくなる」というものもいたけれども、佐野はその友人の方が自分より増しだと思っていた。なぜなら、友人は素手で首をしめることができるからだ。だが、佐野は素手で母にさわるのは嫌だった。彼女は母の匂いも嫌いだったから、洗濯機を使うことなしには母の下着を洗えなかったのである。
佐野洋子は、そういう自分を狂っていると思っていた。しかし、どう努力しても自分の狂気を直すことが出来なかった。母への嫌悪感には、その自己中心的な性格や度外れな吝嗇に対する嫌悪が混じっていたからだった。
子供たちを大学に入れ、独力で家を建てたのに、佐野の母は一千万円余の貯金帳を持っていた。
母は爪に火をともすようにして、こつこつと金を貯めていたのだ。佐野は、母が自宅に訪ねてきて逗留するときに、一度も土産を持って来た事がないことを思い出した。祖父の墓を作るときにも、母は一銭も金を出していない。全部、叔母が費用を出してくれたのだ。
一緒に食事をしたときなど、食べ終ると母の姿がすっと消えていた。外に出て娘が支払いを済ませるのを待っているのである。佐野の家に来ても、母は絶対に何も手伝ってくれなかった。孫が生れた時にもお祝いをくれなかったし、孫に洋服や玩具を買ってくれることもなかった。佐野が家を買う時には、頭金を貸してくれた。母は何も云わずにすぐ出してくれはしたが、抜かりなく銀行と同じ利子を取っていた。
佐野洋子は、惚ける以前の母を見ると、金にまつわるそんないじましいことまで思い出すのである。だが、認知症が進行してから、母は金のことには無関心になった。母は惚けたことで嫌なところを少しずつ振り落とし、愛すべき人間になりはじめたのだ。髪を染めていた頃は下品な印象しかなかったのに、白髪をそのままにするようになったら母は綺麗で上品なおばあさんになった。
それでも母が老人ホームに入って数年たつと、何時しか佐野は母の着替えを手伝うようになった。そして母の靴下を脱がした後で、細くなった足をマッサージしてやるようになった。佐野は冷たい足をさすりながら、心の中で何時でも、「わあ、すげえ、私が母の足をさすっている」と歓声をあげるのだった。
ある日、母をベットに引っ張り上げて寝かしていたら、疲れて息が切れたことがある。それで思わず、「母さん、疲れたよ、隣に入ってもいい?」と尋ねていた。すると、母は、「いいわよ、いいわよ、ホラホラホラ」と布団を持ち上げてくれた。
佐野は、書いている。
<母さんに触れる様になった事はすごい事だった。呆け果てた母さんが、本当の母さんだったのだろうか。呆けても本能的に外敵を作らない様に自分を守ろうとする力が自然に湧いて来るのだろうか。
母さんをひっぱり上げたあと、私は「あー疲れた」と母さんと同じふとんに入った。母は、「ほら、ほら、こつちに入りなさい」と自分でふとんをめくった。私は「落ちちゃうから、もっと向うにつめて」と云うと子供の様に笑った。「ほらもっとこつちに来て、ホラホラ」私は母さんとふとんの中でまだ割っていないわりばしの様になった。
何だ、何でもないじゃないか、くさいわけでも汚いわけでもない>。
母と打ち解けて口をきくようになった佐野は、母がつぶやく言葉を聞いてハッと思った。
「うちに帰ったら、あの子がひとりでいてくれればいいと思うの」
母の頭には、死んだ長男がまだ生きているのだ。「あの子」というのが長男であることに疑う余地はなかった。惚ける以前の母は、長男一人がいてくれればいいと思っていたのである。そもそも母が佐野につらく当たるようになったのは、兄が死んだ時からだった。母は、兄の代わりに娘の私が死ねばよかったと思っていたのだ。
──佐野は母のベットに入り、自然に声に出して歌っていた。
「ねんねんよう、おころりよ、母さんはいい子だ、ねんねしな」
母さんは笑った。とっても楽しそうに笑った。そして母さんも、声に出して歌い始めた。
「坊やはいい子だ、ねんねしなー。それから何だっけ?」
「坊やのお守りはどこへ行った?」
「あの山越えて、里越えて・・・・」
佐野は歌いながら、母の白い髪を撫でた。すると、佐野の目から涙がどっとあふれてきた。佐野の口から、思いもよらない言葉が出ていた。
「ごめんね、母さん、ごめんね。私、悪い子だったね、ごめんね」
佐野は、号泣と言っていいほどに泣いた。母が佐野を優しくなだめた。
「私の方こそごめんなさい。あんたが悪いんじゃないのよ」
何十年も佐野の中でこりかたまっていた母への嫌悪感が一気に溶けていった。佐野は、この瞬間にほとんど五十年以上の年月、彼女を苦しめていた自責の念から解放されたのだった。
彼女は、生きていてよかったと思った。本当に生きていてよかった。こんな日が来るとは思っていなかった。母が昔のまんまの、問答無用で娘の言い分を頭から押さえつける人間だったら、こんな不思議な展開はなかったかもしれない。
母が呆けてからは、さすがに佐野も母に嫌みを云ったり責めたてたりする事はなくなっていたが、心の中では自分の家を追い出されて、さすらい人になってしまった母を冷たい目で見ていたのだ。これも自業自得だからねと、佐野はどこかで思っていた──そういう執念深い嫌な自分が、ようやく消えてくれたのである。
佐野は、この日が自分にとって一生一度の大事件だったと思った。
自分は、何かにゆるされたと思った。世界が違う様相に見えてきた。おだやかな世界。佐野は、(私はゆるされた、何か人知を越えた大きな力によってゆるされた)としみじみと感じた。
「シズコさん」という本は、次のような言葉で終わっている。
<私も死ぬ。生れて来ない子供はいるが、死なない人はいない。
夜寝る時、電気を消すと毎晩母さんが小さな子供を三人位連れて、私の足もとに現れる。夏大島をすかして見る様に茶色いすける様なもやの中に母さんと小さい子供が立っている。
静かで、懐しい思いがする。
静かで、懐しいそちら側に、私も行く。ありがとう。すぐ行くからね。>
*****************************************
私は、この項を始めるときに、次のように書いている。
<私小説作家の耕治人は、ガンになったときに、これは罪多き自分に下された罰だと感じて病苦に耐えている。だが、佐野洋子は、ガンになったことを嘘か本当か、神の恵みだと言っている。
彼女がガンを神の贈り物と考えたのは、十数年間の鬱病で生きることを負担に感じていたからだろうか。その問題について考える前に、「役にたたない日々」に記された他の記事を見てみよう>
佐野洋子が、なぜガンになったことを神の恵みと考えたのかという問題は、項目を変えて一般論として別の日に書くことにしたい。