三島由紀夫 VS.司馬遼太郎(その2)
松本健一による「三島由紀夫と司馬遼太郎」という論考には、毎日新聞に掲載されたという司馬遼太郎の寄稿文がすべて引用されていない。書き出しの部分を紹介しただけで、後を省略し、その代わりに、司馬遼太郎の文が与える印象について語っている。その筆致には、三島への嫌悪が感じられるというのである。
<つまり、あまり書く気がおこ
らない、といいながら、三島の異常な
死にかた自体が「精神異常者が異常を
発し」たものであり、三島の死さえもが
「薄よごれた」ものであると読めるよう
に書かれている(松本健一)>
松本は、司馬遼太郎が三島由紀夫に反感を抱く理由として、司馬の従軍体験をあげている。松本によれば、司馬遼太郎は太平洋戦争末期に戦車部隊の小隊長として、軍上層部がいかに愚劣で非人間的だったかを身をもって体験したため、軍隊を礼賛する三島に怒りを禁じ得なかったというのだ。
戦争末期に司馬は、栃木県佐野市に駐屯していた。彼は、米軍が東京湾に上陸してきたら、戦車部隊を率いて南下し、米軍を迎え撃てといわれていた。それで、大本営参謀が部隊にやってきたとき、迎撃のため戦車を繰り出しても、街道は東京方面から落ち延びてくる人や荷車で溢れんばかりになっているだろうから、前進できないのではないかと質問した。
すると、参謀はぎょっとしたような顔になり、暫時考え込んでから、こう答えたという。
「ひき殺して行け」
大本営参謀たるものが、当然予想される事態について、何も考えていなかったのである。
大本営がいかにうかつだったかを、司馬は別のところでも語っていた。
その時も司馬は、いよいよ本土決戦がはじまれば、戦車は水田にも乗り入れなければならなくなるが、そんなことをしたらキャタピラが泥に沈んで動けなくなるのではないかと参謀に質問したのだ。そしたら、参謀はやはりぎょっとした顔になった。司馬に言われて初めてそのことに気づき、水田に戦車を乗り入れるテストをしたのだという。
司馬遼太郎は、三島が逆戻りさせて復活させようとしている軍国日本の実情を知り抜いていたのである。
(その司馬も、昭和の日本を全否定していたにもかかわらず、明治の日本を賛美してやまないでいる。だが、昭和の日本を作ったのは、明治の日本であり、明治時代に制定した欽定憲法が、日本を敗戦に導いたのだ)
司馬遼太郎が、三島のクーデター計画を否定した背景には、乃木希典の「殉死」に対する嫌悪があったかもしれない。乃木は明治天皇のあとを追って殉死するときに、妻を道連れにしている。三島も、自殺するときに森田必勝を道連れにした。乃木・三島が信じるところに従っておのれ一人で自死するのはいいのだ。だが、司馬は、乃木希典が妻を道連れにして殉死した資料を調べているうちに、乃木の行動に許し難いものがあるのを感じ、連動して三島の行動にも怒りを感じるようになったとおもわれる。
私は、当ブログに「乃木希典の惨劇」という記事を書いて(リスト16を参照)司馬遼太郎の秀作「殉死」を紹介したが、ここでもう一度その要点を紹介しておきたい。
乃木が殉死する少し前、乃木邸に家人や親類の者が集まって雑談していたことがある。妻の静子は、皆の集まっていることに勇気を得て前々から気にしていた問題を持ち出した。乃木家の跡目の話題だった。
乃木夫妻には二人の息子がいたが、二人とも旅順攻略戦で戦死してしまったので、跡継ぎがいなくなっていた。夫人の静子は夫が亡くなったら、自分一人だけになることを気にして、養嗣子をもらうことを願っていたが、それまで乃木が取り合ってくれなかったのだ。
「跡目のことですけど、あなたにもしものことがあったら、私がひとりぼっちになってしまいます」
「べつに、こまることはあるまい。もし困ると思うなら、お前もわしと一緒に死ねばよかろう」
静子は、きっぱりと反論した。
「いやでございますよ。わたくしはこれからせいぜい長生きをして、芝居を見たり、おいしいものを食べたりして、楽しく生きたいと思っているんですもの」
静子がこれだけのことを言ってのけたのは、親戚の者たちが同席していたからだった。結婚生活34年の間、彼女には楽しいことが何一つなかった。頼りにしていた二人の息子にも死なれて、最早、先のよろこびもない。夫と死別したら、自分に死が訪れるまで、人生を十分楽しみたいというのが彼女の正直な気持ちだったのである。
──御大葬の日がくると、乃木は前夜に予約しておいた近所の写真師を迎えて、妻と記念写真を撮った。
「今日の写真は自然な格好がいいだろう」と乃木はいって新聞を読むポーズを取ったが、自然のポーズにしては、服は陸軍大将の礼装だったし、胸には勲章がべたべたぶら下がっていた。
静子はまだ夫の決意を知らなかったから、乃木が御大葬に参列するものと思っていた。その点を確かめると、夫は、「行かぬ」という。夕刻になって彼女が二階の乃木の部屋の戸を開けようとしたら、鍵がかかっていた。乃木が室内から、書生や女中を外に出すように命じた。御大葬の拝観に行かせよというのである。言われたとおり書生と女中を外に出して静子が二階に戻ると、鍵がはずしてあった。乃木は軍服姿で端座している。かたわらに軍刀が置いてある。窓の下の小机に、「遺言状」と墨書した封筒が乗っている。
「察しての通りだ」と乃木はいった、「午後八時に御霊柩が宮城を出る。その時、号砲が鳴る。それを合図に自分は自決する」
午後八時までには15分しかなかった。乃木が葡萄酒を求めたので、静子は階下の台所に行って、そこに来ていた姉の馬場サダ子と姉の孫英子と言葉を交わし、二階に戻った。乃木は葡萄酒を静子に注いでやって別れの盃を交わした。──分かっているのはこのへんまでだった。
最初、乃木は妻を道ずれにするつもりはなかったらしかった。遺言状の宛名に静子の名前があり、妻に言い残す言葉もちゃんと添えられていたのである。
階下にいた姉の耳に、不意に静子の叫ぶ声が聞こえてきた。
「今夜だけは」
姉は緊張して息を詰めた。そのあと、意味の聞き取れない疳のこもった声が二、三続いた。少しの間があり、二階から重い石を畳に落としたような音が聞こえてきた。姉は階段を駆け上り、鍵穴から乃木の名を呼んで必死に叫んだ。彼女は妹が乃木に折檻されていると思ったのである。
「静子に罪があるなら、私が幾重にもお詫びします」
室内から、乃木の返事が聞こえてきたが、何と言っているのか意味は聞き取れなかった。静子は恐らく夫に説得されて一緒に死ぬ積もりになったものの、女の身で色々始末しておきたいものがあったに違いない。それで今夜だけはと頼んだのだが、乃木が叱りつけて即座に自死を決行させたのである。静子は短刀で三度自ら胸を刺したけれども、死にきれなかった。次に司馬の原文を引用する。
「(刺し傷は)浅かった。希典が手伝わざるをえなかっ
たであろう。状況を想像すれば希典は畳の上に、短刀をコ
ブシをもって逆に植え、それへ静子の体をかぶせ、切先を
左胸部にあてて力をくわえた。これが致命傷になった。刃
は心臓右室をつらぬき、しかも背の骨にあたって短刀の切
先が欠けていた(「殉死」)」。
これは、乃木希典の手によってなされた妻殺しの惨劇ではなかったろうか。
──三島は切腹するとき、森田必勝に自分の首を切り落とすように命じている。だが、彼は三度刀を振りおろしたが、その都度失敗し、刀を仲間の古賀に渡して首を切断してもらっている。そのあとで森田が腹を切り、その首も古賀が切り落としたけれども、森田の腹には「ためらい傷」が残っていたというから、古賀は森田が苦しまぬうちに首を切り落としてやったのである。
乃木静子も、森田必勝も、本当に覚悟の上の死だったろうかという疑問が残る。「殉死」を書いた司馬隆太郎は、乃木夫人の上に森田必勝を重ね合わせて、乃木夫人を悼んだように、森田を哀れんでいたように思われる。
司馬と三島は国家観においても開きがあり、人間に対する態度においていっそう大きな差があったのである。