甘口辛口

孤立から低所志向へ(その1)

2010/12/11(土) 午後 1:02

 (ミレー「母の世話」)

孤立から低所志向へ

*私立学園時代*

Ηは体こそ小柄だったが、身のこなしがキビキビしていて、目に強い光のある男だった。私が中高併設の私立学園に就職したとき、彼も同じ新卒の教員として社会科研究室で私と机を並べて勤務することになったのだった。

Ηは親しくなると、すぐ気負った口調で私にこう告げた。

「おれの作品が、六月号の<文芸首都>に載る。雑誌が出たら読んでくれ」 

彼は自分が作家を志望している人間であることを誰にも隠さなかった。そればかりか、まるで皆に見せつけるように自席で原稿用紙を広げ、空き時間に、せっせとペソを走らせていた。

「目覚し時計で頭を殴りつけたらどうなるかな?」

放課後、自席でペンを走らせながら、不意に問いかけてくることがあった。私があっけにとられて、訳を尋ねると、「今、女が男に抵抗するところを書いているんだ。目覚し時計をつかんで、男を殴ったら、男は参っもまうかなあ」と聞くのである。

こういう会話を、他の年配の教師がいる所で、平気でするのだ。

Ηは都内に実家があるにもかかわらず、その方が原稿を書けるという理由で、部屋を借りて下宿していた。彼は、教員稼業を世に出るまでの腹掛け仕事と割り切っているらしかった。この男には、どことなくイソチキ臭いところがあったが、半面、自分の生き方に当然つきまとう、周囲からの反感や侮蔑を凌いで来た、したたかな強さもあり、そこが常人にない彼の魅力になっていた。

一か月もすると、Ηは辛らつな口調で同僚のだれかれをこきおろしはじめた。小説を書いている人間だけが持つ観察力で、そしてそういう人間だけが持つ相手の面皮を剥ぐような辛辣な表現で、彼は同僚を片っ端からやっつけていくのだ。こんな調子で、突っ走っていったら、そのうちに犬死をすることになるのではないかと私は思った。
 
Ηと行動を共にしていると、私の方は逆に、いよいよ覚めた表情になるのであった。私がこれまでに密かに守ってきた行動原則は、負けるとわかっている戦争はしない、ということだった。私は時代に対しても、自分自身についても、ほとんど幻想を持っていなかった。私はまわりの人々を眺めて、(ああ、この世は、この人達のものだな)と何時も考えていた。校内を眺める私の目は、Ηなどよりもずっと冷酷だったかもしれない。

就職していくらもたたないうちに、Ηはあちこちから借金をしはじめた。下宿を変えたり、族行をしたりで、失費が続いて動きがとれなくなって来たのである。

私の方は、月給をもらうとその金を机の引き出しにいれておき、必要に応じて少しずつ使っていた。翌月の給与を残った金の上に重ねて暮しているうちに、いつの間にか引き出しの中の金は、予想外の額になっていた。こうなったのは、私が金を惜しんだからではない。私には格別ほしいものがなかったからだった。

Ηが例の気負づた口調で、しかし事もなげに、「おれ、今度アパートに引越してなあ、女と一緒に暮すことになったよ」と告げたのは、学校にストープがはいった頃だった。

Ηがその女を「拾ってきた」のは、旅行先の宇都宮駅待合室からだった。女は、見も知らぬ男にだまされて、家から連れ出され、何日か遊ばれた後、その駅に放り出されてボンヤリしていたのだ。

「東京に着いたら、すぐに医者のところに連れて行って、ペニシリンを打ってもらったよ。悪い病気をうつされては、かなわんからな」

そのあとで彼は女を銭湯に連れて行った。Ηはその女のことを、「とにかく馬鹿な女だよ。女というだけの女だ。」と言っていた。彼は一度、その女を学校に連れてきたことがある。想像していたとおり、頭が少し弱い女だった。

Ηがこうした「愚行」を重ねる理由は、何だったろうか。Ηは本能的に自らの体騒が不足していることを感じて、坂口安吾・織田作之助など無頼派の作家の真似をして、「文学的体験」なるものをこしらえていたのだ。Ηは、野心ばかりを先行させているけれども、実は書くことが何もないのだった。

彼は、結局、一年とは持たずに翌年の二月に学校をやめていった。

今になって考えてみると、外に出て行ったΗの「愚行」も、精米屋の物置にこもって動かなかった私の「自閉」も、本質において、同じものだった。Ηも私も、現世に侮蔑の目を向け、自分を蘇生させてくれるような痛切な体験を求めていたのだ。Ηはその体験を女との情事に求め、私はそれを本の中に求めていたのである。

戦争中の私は、級友からも、学生寮の仲間からも、いたって評判が悪かった。「孤高を気取っている」というのである。彼らが「孤高を気取っている」というのは、私が天皇を愛さず、軍人を嫌い、時代に対して薄笑いをもって臨んでいたからだった。私は別に反戦運動をしたわけではなかったし、友人に軍部を批判する話をしたわけでもない。だが、時代に同調して一生懸命になっている人間にとっては、それを妨害する者よりも、薄笑いをしながら戦争を冷淡に眺めている者の方がカンに触るらしかったのだ。

この「薄笑いをしながら傍観する」という態度は、軍隊に入ると古兵たちを大いに苛立たせたものだった。私が彼らからよく殴られたのも、このためだった。そして、この姿勢は教員になってからも続いて、学校ではΗと行動をともにしながら、彼が自滅して行くのを黙って傍観していたのである。私は薄情な男だったのだ。

(つづく)