(エトルリア美術:マルス像)
日本人が愛する四字熟語
日本人アスリートのひ弱さを痛感したのは、ロサンゼルス五輪のTVを見ていたときだった。
オリンピックが近づくと、マスコミは来る日も来る日も有望選手の名をあげて金メダルが取れそうだとはやし立てる。それで、視聴者は日本選手の活躍を疑わないようになるのだが、蓋を開けてみると、案に相違して日本の成績がぱっとしない。こんなことを日本のマスコミは、今までずっと繰り返してきたのだった。ロサンゼルス五輪の場合には、この期待の裏切られ方が特にひどかったのである。
今でも覚えているのは、メダルの獲得数が日本は韓国の半分ほどしかなかったことだ。日本の人口は、韓国の2倍強ほどあるから(日本の人口は約1億2000万人、韓国は4800万人)、人口比率にしてみると日本は韓国の四分の一以下のメダルしか取れなかったことになる。
これは日本人選手が、韓国やその他世界各国の選手に比べて実力がなかったからではない。いざ、五輪の会場で競技をする段になると、国民の期待に応えなければならぬという意識が強すぎて、普段の力が出せなくなるためなのだ。他国の選手は、晴れの舞台に立つと、自分の力を見せつけるチャンスが到来したとばかり、火事場の馬鹿力のようなものを出す。そして、実力以上の結果をのこしたりするのである。
この問題に関連する特集が、先日の朝日新聞土曜版に載っていた。日本人が座右の銘にしたいと思っている「四字熟語」にはどんなものがあるかを調査して、そのランキングを載せていたのである。断然他を圧倒してトップになったのは「一期一会」という熟語だった。得票率は46パーセントで、第二位の「七転八起」に比べると、二倍近い票数を集めていたのだ。
ほかに目を引いたのは、「家内安全」「家庭円満」「一家団欒」などの熟語が上位に来ていることだった。「一期一会」で、かりそめの人間関係をも尊重する姿勢を示した日本人は、同時に家庭も大事にして家族回帰の姿勢を明らかにしていたのである。この点を捕らえて、森永卓郎は「このランキングからは、日本人の<いい人>症候群が読み取れる」と評している。
東大教授のロバート・キャンベルも、この調査から、人と支え合って、小さくてもいいから幸せをつかみたいという日本人の願望を感じ取ったと語っている。そして、もし米国人を対象に同じ調査をしたら、トップに来るのは次のような熟語だろうと予想している。
威風堂々(日本人は26位)
不撓不屈(日本人は47位)
気宇壮大(日本人は88位)
これを見ると、日本人は自分だけが突出することを避け、皆と仲良くしていたいとする友好的な生き方を志向するのに反し、アメリカ人は、他を寄せ付けないで一人で大地を行く巨人のような生き方を志向している。
今回の大相撲八百長事件にも、日本人の心性のようなものが現れている。相撲は日本の国技だと謳いながら、日本人の力士は横綱・大関などの上位ランクを外人に明け渡し、それより下位のランクで仲良しクラブを結成しているのだ。日本人力士も、トップの地位を狙って努力していることに疑いはない。だが、外人力士との実力差はいかんともしがたいので、幕内は幕内仲間で、十両は十両仲間で互助会をこしらえ、陥落しそうな仲間を支えあう慣行を作り上げるのだ。八百長相撲は、相互扶助のための手段なのである。
本当はボクシングのランキングのように、場所ごとに最高の成績を収めた力士を横綱チャンピオンとし、次の場所に成績が悪かったら、横綱でも何でも容赦なく下位に落とすという風にしたら、八百長はなくなるのだが、わが国では格付けを固定化したがる傾向があるから、ボクシング式の単純明快なランキングに移行できないのである。
格付けが固定されている最たる制度は天皇制だが、わが国にあっては疑似天皇制がいたるところにあるのだ。歌舞伎、生け花、茶の湯、日本舞踊など、日本伝統の芸能の世界には、きまって家元制度があって、実績のあるなしにかかわらず、家元を名乗る人物がそれぞれの分野で君臨している。最近では政治の世界にも疑似天皇制がはびこり、首相には毛並みのいい政治家が選ばれることが多くなった。
安倍晋三
麻生太郎
鳩山由紀夫
揃いも揃って無能な政治家ばかりだが、どうしてこんな人物が首相になるかと言えば、彼らに元首相、元幹部の令息だったというような箔がついているからだ。こういう人間が首相候補に推されると異論を出しにくくなり、事が穏やかに進行するのである。
先進国の中にあって、日本ほど名門出身者なるものが巾をきかせ、その既得権が尊重される国はない。これは日本人が競争を、つまり誰かが傷つくことになる争いを避けたいからなのだ。だが、韓国などに行くと、事情は異なる。
韓国では、娘をグループサウンズのメンバーにするために、幼児の段階から女の子に歌や踊りを習わせる親が増え、そのための「タレント養成塾」が続出し、いずれも商売繁盛しているという。
囲碁の世界では、日本人棋士は韓国の棋士に押されっぱなしだが、韓国では子供に碁の才能があると分かれば、親も本腰を入れ、学校の勉強やその他一切をそっちのけにして囲碁漬けの生活を送らせているという。日本でもそういうケースがなくはないが、この種の子供を集めて囲碁の塾が開かれるようなことはない。韓国ではこういう「囲碁まっしぐら」という子供がたくさんいるため、子供向けの囲碁塾を開いても経営が成り立つのだ。そして、そこで仲間と競争して鍛えられた少年が天才棋士として世に送り出される。これでは、日本人棋士が彼らにかなうはずはないのである。
しかし、競争に強い人間が、人として成熟しているわけではない。社会的に成功した人間のすべてが、ちゃんとした見識を持っているわけでもない。それどころか、「一芸にまっしぐら」タイプで競争に勝ち続けていた強者が、人間的に成長した為に却って勝負に弱くなり、競争に負けはじめるというような事実が多々見られるのだ。
私はこれまで、「日本的なもの」を敬遠してきたけれども、日本的なものはアニミズムを陽とし、老子的処世術を陰とする二要素から構成されているのではないかという気がしてきて、小林秀雄全集を購入して少しずつ読み始めている。小林秀雄晩年の理論は、日本的なもの(やまとごころ)の再評価にあるからだ。