「八十路から眺めれば」
書架の片隅に「八十路(ヤソジ)から眺めれば」という本があったので、興味を感じて読んでみた。この本を古書店から買ってきた記憶はあるのだが、それが何時のことだったか思い出せない。
全体で165ページしかない薄い本だったし、老人の読者を想定して大きな活字で行間もたっぷり取ってあるので、瞬く間に読み終えた。これが一流の思想家か、心理学者の手になるものだったら、手応えのある内容になったかも知れないが、著者はあまり有名ではないらしいマルコム・カウリーというアメリカの詩人兼文芸評論家であり、この本を随想風な筆致で書いているため、何となく薄手な印象を与える内容になっている。
例えば、著者は50代、60代の後輩を「少年少女」と呼んでいるのだが、こういう言い方そのものが軽薄な印象を与えるのである。それでも、読んでいると共感を感じる部分があったので、私も八十路にある老人として、ここにその共感した部分をいくつか拾い出してみようと思う。
著者によると、アメリカでは老人層の半分が70代後半の5年間に死んでしまうため、80代まで生き延びる老人は、それほど多くないらしい。
<七十代の人たちは、たとえ邪魔にされ、片隅に押しやられていようとも、自分たちはまだ中年世代だという錯覚を抱いている。八十代の人間は団子のように肥えた姿を鏡で見て、あっさりと自分の老いを認める。いよいよ最終幕が始まったのである。芝居の成否はこの幕で決まる。>
アメリカ人の特徴は、老いも若きも、よく食い、よく飲むことだ。その大食いする食べ物はカロリー価の高い肉類であり、よく飲むのはアルコール度の高いウイスキーやビールである。だが、アメリカ人は、青年期や壮年期には体内に摂取する高エネルギーにふさわしい活動的な生活を送っているから、格別、肥ることもない。
だが、70代を超えて80代になると体力が衰えて来て、エネルギーバランスが入超状態になる。この瞬間から、老人は肥り始めるのだ。アジアの老人たちは加齢とともに痩せて行くが、アメリカの老人は肥り始めるのだ。
だが、痩せて行こうと肥って行こうと、あるいは、わが身がいくら醜く変貌して行こうと、老人たちが自分の本質は不変だと思っている点に変わりはない。老人は皆、自分の知能や感情は、若い頃のままだと信じて疑わないのである。
<老年とは、他人の手前、身にまとっている衣装にすぎないのではあるまいか、真の自己、本質的な自分というものに年齢はありえないのではないのか>と老人は考えているのだ。
他人の前では自らの老いを認めながら、心の中では自分は若い頃と変わりがないと思いこんでいる。だから、地域のお祭りの時など、50,60の女性たちがそろいの衣装を着て集団で踊りを披露したりする。踊っているときの彼女らは、二十歳の娘に戻っているのである。女性は何歳になっても、自分をまだ二十歳の娘だと考えているのだ。
老人は、すべて自信家ではあるけれども、現実には男も女も若い頃の多面的な興味が薄れ、単一な興味、単一な欲望に心が乗っ取られるようになる。要するに、複雑だった人格から、一つの支配的な特徴だけを残して、あとのすべてが消えるのである。このような人たちは、お喋り、金棒引き、廃疾者、鬼婆、世捨て人、キッチン・ドリンカー、守銭奴、臆痛者、苛めっ子、行かず後家など、さまざまの古典的な役を演じるようになるけれども、老年期の悪徳のうちで、最悪なものは強欲だと著者は言う。
<男であれ女であれ、大勢の老人たちが、使う見込みもないのに、時には相
続人さえいないのに、あくまでも金を貯めこもうとするのは、どうしてな
のだろう。そういう人たちは安売りの食べ物しか食べず、衣類は決して買
わず、もっと良い住居に住むこともできるのに狭い一部屋で暮らしていた
りする。
・・・・ほかの力が衰えていくとき、金という力が蓄積されていくのを眺
めるのは、確かに慰めにはなろう。老人があばら家で独り死んでいるのが発
見され、マットレスに預金通帳や株券が詰めこまれていた、というたぐい
の新聞記事を私たちはいくたび読んだことか!>
著者は。老人の持つマイナス面をあげる一方で、老人だけに許されている楽しみもあげている。「無為を楽しむ」
という快楽である。
<それらの快楽のなかには、若者にはほとんど理解し難いものもある。例え
ば、日に温められた石の上に寝そべっている蛇のように、ただじっと坐
っていること。このときの、えも言われぬ怠惰の味は、老年以前には滅多
に味わえないものである。一枚の木の葉がひらひらと舞い落ちる。雲が地
平をゆったりと移動してゆく。このような一時、年老いた男は身も心もく
すろぎの極致にあり、自然の一部と化している>
無為を楽しむためには、何らかの教養や資質が必要かも知れない。著者は、無為を楽しむことを知らない老人の陥りやすい陥穽として飲酒をあげている。
<ボストンからサンディエゴまで、大都市の郊外には密かにアルコールに依存する未亡人たちで溢れんばかりだという>
著者が老人の心境について触れた部分には、同感するものが多い。彼は83歳になる女性の手記を引用する。
<またひとつ新たな肉体の衰えが訪れたとき、これは死の訪れなのだろうかと私はあたりを見まわし、静かに呼びかける。『死よ、あなたなの?そこにいるのは?』>
その女性は、深淵に向かって問いかけるように、「そこまで来ているあなたは、死なの?」とささやく。そして、そのあとで、慌ててその懸念を否定する。「馬鹿なことを言わないで、そこまで来ているのは体の衰えた私なのよ、ちょっと衰えただけの私じゃないの」と。
著者は80をすぎてからの同窓会が、以前のそれと様変わりしていることを述べている。出席者たちは昔と変わることなく元気に見えるが、階下に移動するときになると、みんな階段の手すりにつかまって降りて行くのである。酒が出ても、以前のような速度で酒が減っていくことはない。前回まで酒を飲んで陽気に騒いでいた男たちが死んでしまったからだ。
私は以前に、「最初に死んでいったのは、神様のように善良だった級友で、次に死んでいったのは生涯現役を口癖にしていた元気者の級友たちだった」と同級生の消息について書いたことがある。生命の灯は、あまり静かにしていても消えてしまうし、盛大に燃やしすぎると、意外に早く燃え尽きてしまうものなのだ。
また著者は一番不幸な同窓生についても書いている。
<いちばん不幸な同窓生といえば、それは細君に近頃先立たれた男である。その男はアリゾナのだだっ広い屋敷に、定職もなく、一人取り残された>
老年になって伴侶に死に別れた男女はいずれも不幸だが、どちらの傷が深いかといえば男の方である。夫婦は共依存の関係にあるけれども、依存の度合いは男の側の方が大きいのである。夫と死別しても、妻には文字通り自分の分身である子供たちがおり、感情を分かち合っている同性の仲間がいる。だが、男は本質的に単体動物だから、わが子とも友人とも完全には一体化できない。わずかに繋がっているものといえば妻しかいないのである。
友人たちを見ていると、妻に死なれた男たちの弱り方は想像以上なのだ。
この本を読んでいて、一番有益だったのは、体が不調になると死の前兆ではないかと思ってしまうという例の83歳の女性の手記だった。著者によると、彼女はこういうことも言っているというのだ。
<私の七十代は面白かったし、かなり長閑でもあったのだが、八十代はなんだか情熱的なのだ。私は年ごとに激烈になっていく。自分でも驚くほど熱っぽい調子で、爆発的に信念を披渡したりする……もっと落ちつかなければいけない。道徳的熱狂に陥るにしては、この私は脆弱すぎる人間なのだから>
こういった後で、彼女は同年配の仲間に助言する。老人には、真実を語っても失うものはなにもないのだから、この上なく率直な回想録を書くことにしなさい、と。
<クロスワード・パズルも、お絵描きも、刺繍も、編み物も、すべて煩わしいだけという人には、一冊のノートが役に立つかもしれない。それは生身の相手との会話よりも心を安らかにしてくれる。私にとって、ノートは一人の伴侶であり、伴侶以上のもの、教会の懺悔室である。べつに罪が赦されるわけでもないが、(おのれのありのままの姿を)知ることは罪の赦しに類似していないだろうか>